●(昨日、一昨日につづいて、もうちょっとフランシス・アリス)
フランシス・アリス展の図録を読んだ。これは展覧会の図録ではなく作品の一部とでもいうべきもので、(まあ、買わなきゃいけないんだけど)持ち帰ることの出来る作品だということだろう。これを読むことでまた、展示されていた作品を観た記憶が再編成される。
二期目のジブラルタル海峡編の面白さは拡散性にこそあって、つまり「展覧会のどこを観ていいのかよくわからない」ところこそが面白い。実際、展示してあるもののほとんどに「作品」としての凝縮力のようなものがあまりない。プロジェクトのためのメモやアイデアスケッチとその記録が展示してあるだけのようにも見える。しかし、プロジェクトそのものやそのアクションこそが作品なのだと言い切っているわけでもない。ペインティングも映像も、中途半端に加工してあるし、作品としての凝集力は強くないにしても、個々の物がそれとして不思議にチャーミングでもある。観ていて、ぐっと迫ってくるほどではないが、なんとなく楽しい。要するに、弱い作品が薄っぺらく引き伸ばされて並んでいるかのようにも見える。ジブラルタル海峡のプロジェクトに関する作品だけが並んでいるわけではなく、プロジェクトと中途半端に関連した(関連しているような、していないような)別の独立した作品も展示されている。つまり、構成がとても緩い。
作品は「どこ」にあるのか。目の前の「そこ」にあるのか、それともそれを観ている人の「頭のなか」にあるのか。それは例えばセザンヌの絵にも言えて、セザンヌの作品とは目の前にある対象(画布と絵の具)なのか、それを観ることで惹起される何かしらの感覚(観る側に起こること)の方であるのか、どちらなのかと問うこともできる。しかしセザンヌの絵ならば、少なくとも観るべき対象が「そこ」にあるとは指さすことが出来る。しかし、フランシス・アリスの作品は「どこ」にあるのかよく分からない。「それ」として指させる映像やペインティングやオブジェが作品なのか、関係づけられて展示されているそれらの関係性こそが作品なのか、あるいはプロジェクトそのものが作品なのか、コンセプトが作品なのか。この作家のつかみどころのなさ、そして面白さは、「作品」がその「どこ」にもないように感じられるというところにある。散歩という行為は一体どこにあるのか。風景を見ることにあるのか、歩くことそのものにあるのか、季節や気候を楽しむことなのか、あるいは途中で喫茶店に入って飲むコーヒーこそが散歩の醍醐味なのか。あるいはまた、大勢で散歩をしながらプラカードを掲げて主義主張を叫ぶのも楽しいかもしれない。そのすべてであると同時に、それらのどこにもないのが「散歩」であり、その時の散歩の「イメージ」は、後になってそれをどのように思い出すかによって大きく変わる。要するに散歩には芯がなく、芯がないものこそが散歩であろう。
極端なことを言えば、この展覧会を、熱いさなかに美術館に出かけて、空調の効いた涼しい展示室で子供たちが水遊びする映像が見られて気持ちよかった、と受け取る人もいるだろう、おそらくそれでもかまわないという作り方がなされていると思う。しかし、買って帰った図録を読んだときに、そう思った経験がまた違ったものとして再編成されるかもしれないし、それとはまた別のふとしたきっかけで、展示されていた何かを思い出すこともあるかもしれない。フランシス・アリスの作品は、作品が「どこ」にあるのか分からないだけでなく、展示されたものたちのなかを、それを観る人たちがどう横切り、どのようなところに触れるのかということも、分からないまま開かれている感じがする。散歩に芯がないように、展示にも芯がない。この芯のなさにこそこの作家の稀有な魅力があるように思う。
それは、どのように解釈してもかまわないということではない。解釈以前にある、もっとささやかで、受動的なもののことだ。人がそこで何に気付くのか、何に気付かないのか、何に出会って、何に出会わないかさえ、人それぞれとして開かれている。そこで経験されたことが、その後、それぞれの観客においてどのように想起され、想起し直され、編成し直されるのかも分からない。展覧会に訪れる一人一人の人にとって、作品はどこにもないし、フランシス・アリスという人さえ、もう関係ないかもしれない。例えば、手塚・石ノ森を観に来た人が作家の名前も知らずにふらっと立ち寄って、何ということもなく---そこで特に作家に興味をもつこともなく---そのまま帰り、しかし一枚のペインティングだけが、どこで観たのか忘れてしまいつつも、後々までも印象に残っていて、「あの絵、どこで観たんだっけ」と時々思い出す、というような形で、個々人のなかで何かが動くきっかけとなるような何かとして、作品があるというような。そのような形で意識以前のところで何かが伝播すること。このような弱さ、芯のなさこそが、この作家の信じる「強さ」なのだと思う(そのような意味では、第一期の展示は---作家の紹介としては大変に優れていたと思うけど---少しばかり生真面目すぎたのかもしれない)。
勿論、そのような展覧会にも一応一貫した構成があり、物語がある。エスカレーターを昇ってすぐのところに、(一応は)政治的、社会的な意味合いが強い映像作品が置かれ、それがジブラルタル海峡を子供たちが繋ぐという---政治的でもありメルヘンチックでもある---プロジェクトに関する展示へ連なって行く。それは、資料性の強いものから、映像作品へ、そして(一応作品ぽいと言える---しかし拡散的でとらえどころのない)ペインティングやオブジェへ至り、しかし最後のところで、その(美しく、しかし凡庸とも言える)プロジェクトの意味が、自己完結していてどこにも向かわない(目的を持たない)「子供の遊び」へと接続されて、会場は、最初の政治性の強い映像へと戻ってくる(そして階下には失敗したプロジェクトの映像が流されている)。この、閉じられない円環構造(とその下にある失敗)によって、何かを意味していると取ることは容易であり、これを読み違える人はそんなにいないだろうという意味で、なんとなく納得しやすいメッセージがちゃんと用意されているとは言えるのだ。
(図録を読むとこのプロジェクトはそもそも、「濡れた足/乾いた足」政策---キューバからの移民が陸上で発見されればアメリカはそれを受け入れるが、海の上で発見されたらキューバに送還する---に絡んだ話として、では「橋の上」で発見されたらどうなのか?、というところからきていると知ることが出来、それを知ることでこの展覧会のイメージがまた少し深くなるという多層構造をもってもいる。)
しかし、このような分かり易いメッセージ(解釈)は、実際にこの展覧会を観ている時の解放感とはあまり関係がないとも言える。ぼくが特に惹かれるのはやはり映像作品なのだが、そこに写っている風景や人や光(や犬)の表情が何と魅力的なことだろうか。第二期で展示されている映像は第一期のもののように長くはないのだけど、何度もループして観てしまうので、いつの間にか時間が経ってしまっている。それは、映像として強い凝集力(高い完成度)があるというのではなく、そこに写っている人やものたちが、まるでフランシス・アリスの作品のように自由で拡散的に---つかみどころなく---存在しているという感じが面白いのだ。スペイン側から対岸のモロッコを見ている人と、モロッコ側から対岸のスペインを見ている人の映像が、壁の角に九十度の角度で並べて展示してある作品があるのだけど、これなども、コンセプトとは関係なく(コンセプトは凡庸なのだけど)、そこに写っている「海を見ている人」たちの動きや佇まいがとにかく面白く魅力的で、なんでこんな風に撮れるのだろうかと、いつまでもずっと眺めてしまう。