●MOTのフランシス・アリス展、第一期の最終日だったのでもう一回観に行った。
例えば、「衝突」という作品について会場で配られたリーフレットでは、≪一つのアクシデントを9つの異なる角度から撮った≫と書かれているけど、これが「一つのアクシデント」であると何故言えるのか。もしこれが「一回の出来事」を「同時に」九台のカメラで撮っていたとしたら、それぞれのカメラのフレーム内に、別角度から撮っているカメラが写り込んでしまうはずなのだ。もしかすると、(順路の順番で)最初の四つくらいのフレームは、互いに互いのカメラが写り込まないような位置から「一回で」撮られているという可能性もある。しかし、後半のものまで含めるならば、少なくとも三回くらいはテイクを重ねないとすべてのフレームを撮影することはできないと思う(正確なことを言うためには、九つの映像をもっときちんと検証する必要があるけど)。もしかすると、最初の(どれか)一つが撮られた後で、その映像と矛盾しないように再現されたアクシデントが、その都度九回反復されたのかもしれない。つまりこの作品では、「一つのアクシデント」と言う時、その「一つ」というのは一体何を意味しているのか、という問いが問われている。
一つの出来事が、九つの別のフレームに分割されているのか、それとも、九つの(相互に参照し合う)異なるテイクが、「一つの出来事」というフィクションをたちあげているのか、あるいは、その最初のテイクからして仕組まれたものであれば、それはアクシデントと言えるのか。
知覚とは、常に二度目(以降)の知覚だ(机を「机として」知覚できるのは既に机を知っているからだ)。同様に、アクシデントとは常に再現されたものである(アクシデントを「アクシデントとして」把握できるのは、それをアクシデントとして想起――脳内リプレイ――した後である)。世界そのものが、無数の出来事の認知不可能なくらいの複雑な絡み合い(相互関係)で出来ているとすれば、アクシデントが「アクシデントとして」浮上するためには、そこから、認知可能ないくつかの流れをピックアップして、その流れの間の関係の絡み合いを発見する必要がある。アクシデントは世界そのものの側にあるというより、そこからピックアップされる「いくつかの流れ」と「相互参照」(つまり視点)によって生まれる。だから、「衝突」という作品は、一つの出来事を九つに分割しているというよりむしろ、(メキシコシティのある街角という「世界」を構成する)無数の流れのなかから、九つの流れをピックアップし、その相互参照によって、あるアクシデントを(無数の流れという地のなかから「図」として)浮かび上がらせているというべきだろうと思う。
あるいは、「トルネード」という作品についてリーフレットでは、≪ミルパ・アルタ≫という場所で、≪2000年から2010年≫にかけて撮影されたと書かれている。しかし、それは作品の外にある情報であって、作品そのものではそれについては一切触れられていない(作品内には言葉がまったくない)。われわれが観るのは、いつ、どことも知れない砂漠のような乾燥した広がりだ。そこに起こる竜巻、そして竜巻に近寄ったり遠ざかったりする視点、あるいは人を見るのだし、そして、聞こえてくるのは、人の息であり、竜巻の轟音であり、地面を踏んで進む足音ばかりである。それは、例えば「一つの竜巻」が、生まれ、育ち、消えてゆくという「自然」の過程が示されるのではないし、竜巻の発見から、接近、突入、撤退という「人の側」の出来事の流れが示されるのでもない。ただひたすら、砂漠があり、竜巻があり、それへの接近と突入が、(どのカットとどのカットがどのような関係にあるのかよく分からないままで示される)途切れ途切れの映像が、いくつもの暗転を挟んで、延々とつづくだけだ。つまりここでは、「衝突」とは異なり、流れと流れの間の相互参照は十分には成立し得ず、よって、アクシデント(脳内リプレイ)は構成されない(あるいは、不十分にしか構成されない)。つまり、細かく切り刻まれ、座標も位置も失った時間と空間のなかで、まるで夢であるかのような未分化な形で(アクシデントとして構成され得ない)前アクシデントとしての「トルネード」を経験する。
「衝突」では、会場内にバラバラに置かれた九つの映像によって、「一つのアクシデント」が構成され、「トルネード」では、一つに繋がった映像を一つの場所で観ているのにもかかわらず、アクシデントは(十分な形では)構成されない。「衝突」と「トルネード」は、一つの展覧会場のなかで、きれいに裏表のとなる経験を生じさせるという関係をもっているように思われた。
●下は、フランシス・アリス展を最初に観た時の感想。なぜか「衝突」というタイトルを「衝撃」と勘違いしている。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130502