●あらゆるものは考える。思考はどこにでもある。人間だけが考えるのではないし、生物だけが考えるのでもなく、ある程度持続する、あるいは反復する環境、構造化されたシステムがあるところには、どこにでも思考がある。そして、思考と思考は混じり合い、相互作用する。しかし「わたし」は、どこにでもあると言えるのか。あるいは「わたし」は、人間にしかないのだろうか。
「わたし」があるためには、「考える」があるだけでは駄目で、「(わたしが)考えているということを(わたしが)知っている」必要がある(後者の「知っているわたし」の同一性の持続が必要であろう)。そしてそのためには、「わたし」は他からはっきりと切り離されて「一つ」である必要がある。この「一つ」であることは絶対的ではないとしても、かなり強く「一つ」である必要がある。
(鳥の群れや密林からも「思考」は見出せるとしても、「わたし」は見出せないだろう。)
(一つの思考、一連の計算過程があれば、そこに“わたし”があるとすれば、「わたし」のなかには複数の“わたし”があるはずだが、そうだとしても、「わたし」は依然として「一つ」だし、「一つ」であることは、「わたし」にとっては容易には動かし難い。)
そして、「わたし」があるためには「今」がなくてはならない。「わたし」がなければ「今」はないし、「今」がなければ「わたし」はない。直線(あるいは年表)によって表現された「わたしの一生の時間」からは、「今」が見出せないのでそこには「わたし」がない。というか、直線や年表(出来事の因果的連鎖)では「<わたし>があるもの」と「<わたし>がないもの」との区別がつかない。
(日本の歴史やこの森の来歴に、「わたし」はあるのか。)
「わたし」が「一つ」であることは、「今」が「一つ」であることと等しい。それはつまり、出来事の因果的連鎖のなかに「今」を(つまり、前向きに進行する時間と未だないものとしての「未来」を)描き込みたいのならば「わたし」は必須である、ということだ。次々と「新たななにものか」が到来し、未だ不確定である未来が存在する「時間」を描こうとするならば、必然的に、他とは切り離されて強く一つであるこの「わたし」が必要になる。
「わたし」の連続性(わたしが「一つ」であること)とは「時間」の連続性でもあり、因果連鎖の直線が途中で途切れていないということであろう。「時は一つの流れであり、止まることはない」のは、「わたし」があるからだ。「わたし」がなければ、ただ、時空の四次元座標のなかの任意である点や交錯する因果の線が無数にあるだけだろう。
もし「わたしがたった一つだけ存在する」のでなければ、「今」はたんに任意の一点となり、恣意的、相対的なものに過ぎなくなる。実際、相対性理論においては、「今」は「ここ」と同様に(時間は、空間と連続的な四つ目の次元であり)、どのようにも取り得る相対的なものでしかない。
(とはいえ、西川アサキさんは、相対性理論では他の三つの次元と違って時間に「マイナス」がついているのが重要なのではないか、と言っていた。)
たとえ、あらゆるものが思考するとしても、思考するもののすべてが「わたし」であるわけではない。「わたし」など存在しなくともこの宇宙は成り立つし、「高度な思考」も成り立つだろう(おそらく、囲碁ソフトに「わたし」は宿っていないだろう)。なのになぜ「わたし」があるのか(意識は存在しない、という哲学者もいるが)。ぼくはこの「わたし」の問題を「忘れる」ことができない(出来ることなら忘れたいが)。
●single stroke structure (paper) 6点。一枚の紙だけを使い、連続性を保ったまま(切り離しはしないで)、ちぎって、ねじって、糊付けしてつくった。