●エリー・デューリングの「プロセスから操作へ」という短いテキストの翻訳がウェブにあがっていた。この「プロトタイプ」という概念はなかなか掴み難くい、難しい概念だけど、理解の助けになるような感じ。
http://ryoheiito.tumblr.com/post/119016761518
まずこのテキストの目的は、《表象に反対して行為や操作を今日も演じ続けたいという、ある種の理論的な素朴さ》を批判することだと言える。ただ、エリー・デューリングもまた、現代芸術は表象を脱して「操作」を問題にすべきだという問題意識は共有している。そこにある「理論的な素朴さ」が批判されている。
それは、行為や操作を問題にしているかのように見える言説が、実はそれを的確に問題し得ていないということだ。例えば「コラージュ」や「サンプリング」というような「操作」が問題とされる時、あたかもその操作自体にあらかじめ何かしの意味が付与されているかのような(サンプリングという手法自体に何かの新しさが宿っているかのような)言説が批判される。
サンプリングに対する言説として典型的に、(1)再適合とモンタージュという行為に注目するものがあり、(2)切り抜きと転用という行為に注目するものがあるが、それらは、前者には「世界のざわめきを受け入れ、耳を澄ます、という理念」が、後者には「意味作用の能動的な転用と再配置という理念」が、前もって既に準備されていて、そこから遡行的に見出されたものであり、それらは結局、一方が、世界そのものを受容し、中継し、散種する受苦としての芸術家という像を指し示し、他方が、素材を変容させ、記号を再配置する、至上の解釈者にして能動者である天才的な芸術家という像を指し示す。それらはどちらにしても、《芸術のロマン主義的な体制》下にある二種類の典型例(紋切り型)でしかない、と。つまり、操作そのものを思考するには至っていないというわけだ。
それは、プロセスアートやコンセプチュアルアートといった「操作」そのものが問題とされるような作品についても同様である、と。ここでも、一方に(1)操作のプロセス的な体制というものがあり、他方に(2)パフォーマティブな体制というものがある、と。
(1)においては作品が潜在化され、その潜在化において「操作」が浮上する。作品の潜在化とは、環境、パフォーマー、観客などの相互作用による(そこで出来する)「効果(≒出来事)」が優先され、物質として、オブジェとしての「作品」そのものが後退し、消滅することだとされる。これは、フリードが「芸術と客体性」で批判した「深夜のハイウェイ」に近い感じではないかと思う。作品のコト化。
(2)においては、作品が、組み立ての手引きやプロトコルと化す。作品の「使用書化」と言える。《使用法は、美学的な経験の条件を一連の手続きによって開始することで、ついに作品の代わりになるのである》。この時、オブジェと言語とが、分かちがたく結びついてしまう。《プロセスが、それを芸術としてでなくとも少なくとも美的な経験の場として開始するような、言語の諸々の行為によって倍化される運命にある》。
(これはどちらにしても、レディメイドによって既に実現されている、と。レディメンドは、(1)芸術において「習慣」と「見物人のまなざし」の重要性を強調し、(2)「手続き的な性質」へと作品を明け渡すことによって、芸術を脱実体化した、と。)
(1)や(2)において、作品は、その作品に固有のプロセス(プロジェクトの記録や美的な経験の徴)へと拡散される。だが、それこそが「表象を脱して操作を思考する」ことではないのか。いや、そうではなく、ことはまったく逆なのだ、と。
ここでフルクサスが取り上げられる。
《「芸術はすでに生活そのものだ」と認めるならば、「すべては芸術である」。しかし、このことを示すためには、そう言わなければならない。》
《ブレクトの1961年の作品、《指示》はこのようなものだ。「ラジオをつける。最初の音が聞こえた瞬間、ラジオを切る。」したがって、使用法がなければ、通知がなければ、イヴェントは存在しない。指示に従うことは、さらにまったく執拗に、署名に従うことを伴う。ベン・ヴォーティエは自分の作品や日用品、庭の雌鳥、一蹴り一蹴り、そして言葉そのものにまで署名しはじめ、その一方で、ブロータースは紙の上、フィルムのリールの上に、彼のイニシャルの入ったスタンプを押す。したがって、芸術と生活の等価性を実現するためには、生活に署名をしなければならない。》
「生活(現実)」と「芸術」の区別がなくなる時、「作品」は「指示」や「署名」に自らの座を譲り、後退して潜在化してしまい、それにより「生活」が「指示」や「署名」で満たされてしまう。そこに現れるのは実は「手続き」や「操作」の消失であり、テキスト(言語)や観念の専制であるのだ、と(この点で、ネルソン・グッドマンが名指しで批判される)。
《プロセスにまつわる首尾一貫した思想は、その裏側に、あらゆる操作や現れの観念ないし原理としての無形の作品、という観念を含んでいる。プロセスに内在する現実性は、たえず到来する作品の観念を、影のように自らの後ろへと投影する。厳密にいえば、作品の観念が持つ能力がもっともはっきりと現れるのは、それが完全に不在であるときのことだ(ボイス、フリント、コスースのように)。このようにして、「絵画唯名論」(ド・デューヴ)は、観念論へと転倒する。それでは、プロセスとパフォーマティヴなもののあいだに挟まれている操作は、何に変化するのか。潜在化され、観念化されるのだ。操作を包み込むプロセスに内在して、私たちはそれを、観念としての作品において、あらかじめかたちづくられたものとして、思い描く。》
この不在である「無形の作品」の機能こそが「ロマン主義」と言って批判されているものなのかもしれない。では、どうするのか。このテキストで最も重要なのは次の部分であると思う。
《「ひとつの同じ手続き〔procedure〕が、本質的に異なる様々な意図の下で活用され、解釈され、あてはめられ、適応されうる」のであり、過ちの観念や有罪の観念はあとからつけ足されたものなのである。また、手続きに十分に触れていることを私たちに請け合うのはただ、諸々の読み方や諸々の使い方を生じさせることだけであり、それらは矛盾しないとはいえ、少なくとも一致はしない。その適切な操作は、たださまざまな解釈やさまざまな使用法の分岐点としてしか現れえない。操作は、さまざまな解釈の差動装置(ディファレンシャル・ギア)なのである。我々は、したがって、「身振り〔geste〕」の観念をこうした特異性のために用意しておく。この特異性は技術的な装置と使用法のあいだに姿を現し、物理的ないし象徴的な行為の連鎖とその連鎖に対して授けられる解釈とのあいだに姿を現す。あるいは、結局それは同じことになるのだが、我々が「身振り」と呼ぼうと思うのは、おなじひとつの手続きからはじめて、自らにあてがわれたなにかを解釈するもののことであり、新しい解釈を、新しい利用価値を解き放つもののことである。手続きは、手続き自体に向かって投げ出されるさまざまな解釈の戯れに委ねられ、それゆえ、手続きはまさしく〈定義しえない〉ままに留まる。つまり、手続きを制定する身振りにもとづくことによってしか、手続きを識別することはできないのである。》
「操作」は、ただ《さまざまな解釈やさまざまな使用法の分岐点》としてしか現れない《解釈の差動装置》である、と。だから「操作」そのものに何かしらの意味が前もってあるかのように考えてはいけないのだ、と。操作は、「技術的な装置」とその「(新たな)使用法」の間、「行為の連鎖」と「連鎖に対する(新たな)解釈」との間にあらわれる「身振り」としてしかとらえられない、と。「身振り」とは、同じ手続き(装置や行為)から新たな利用価値や解釈を生み出すもののことである、と。ならば、「操作」について考えるというのは「手続き→身振り→(新たな)使用法」という一連の移り行きを捉え、そのなかから「身振り」を抽出すること、ということになるのだろうか。
パナマレンコは、アレゴリックであり、かつ字義どおりであるような様態で、〈ワーク・イン・プログレス〉の安直さに甘んじることのない、プロトタイプとしての作品という実践を具現する。「私のプロジェクトは正確には観念ではありませんし、夢でもありません。問題になっているのは飛行機をつくることではなくて、理想的であるようなものをつくることです。たとえそれで飛ぶことができなくとも、それは快いものなのです。」》
ここからまた「プロトタイプ」を読み返すべきなのか。