池田剛介さんのテキスト、すごく面白い。「グローバル時代に「作品」は可能か?(下)」
https://madcity.jp/note10_ikeda/
●確かに、赤瀬川原平の「千円札」はプロトタイプだと言えるし、「宇宙の罐詰」は、掌にのるような小さなオブジェクトによって宇宙全体の内と外とを反転させる、いわばボルヘス的な作品だろう。それは、小さくて、輪郭が閉じているからこそ、トポロジカルな反転が可能になる。そして、赤瀬川原平の「反芸術」の数々が、裁判所に持ち込まれることで「芸術」へと反転し、その反転が法廷という場を別様なものへと変容させる、という議論はとても刺激的だ。ここでもやはり、トポロジーが重要になってくるのか。
《これらのモノたちは、法と芸術という区別を能動的に破壊することで、法の場を変容させるのではない。むしろ法的なプロセスに則りながら(いわば法の「輪郭」に相即するしかたで)、あくまでも裁判内の証拠品として運び込まれ、証拠品としての役割を徹底することを通じて法廷の場を変容させてしまう、そうした方法であった。それは例えるならば、靴下の表と裏をひっくりがえす(inside-out)ような方法であり、単にアウトロー(法外)であることとは似て非なる、インサイドアウトロー(法のひっくり返し)とでもいうべきものでしょう。法と芸術を「区別ある」ものとしながら、むしろ徹底して法のルールを受け入れることによって、法の場に「インサイドアウトな変革」をもたらすこと。》
●このテキストを読みながらマイケル・フリードの議論を思い出していた(「芸術と客体性」)。フリードは、(モダニズム的な)良い「作品」は閉じてなければならない、観者への効果が意識されていてはならないということを言う。作品を観るということは、ある行為に没入していて、こちらの視線に気づいていない人の行為を観るようなことで、演劇のように、観客の存在を意識して演技されているものを観ることではない、と。要するに、作品は閉ざされていて、(観者に対してあるのではなく)それ自身として自律した生を生きているようにあるのでなければならない、ということだろう。モダニズムの作品から強く影響を受けている者からすると、感覚的にフリードの言いたいことはすごくよく分かる。でも、では何故「〜でなければならない」と言えるのか、という部分は弱い。観者と直接対面するような作品は、作品の構造があらかじめ(事前に想定される)観者との関係性を組み込んでしまっていて、それに規定されてしまうから駄目で、対して閉じられた作品と観者との関係は事後的にのみ成立し、未だ決定されておらず、その関係は未来に対して開かれている、と。作品が閉ざされてあるからこそ、観者は、作品に対して観者として自律した介入が可能になるのだ(つまり、お互いに閉じているからこそ、場の空気を読んだコミュニケーションではなく、一対一の出会いがあり得る、と)、ということで、これもまた、感覚的にはすごくよく分かるのだけど、理論的にびしっと示すことができているとは言えないと思う。だから、「そんなのはモダニズムの慣習でしかないでしょ」と言われれば返す言葉はない。実際、フリードは、それがモダニズムの「約定」なのだと言ってしまっている。
池田さんが「物化」と言っているような地点から考え直すと、このフリードの議論をモダニズムという文脈を外した上で再検討することも出来るのではないか、と(これは、ハーマンの「代替因果」という話とも近いと思う)。
《わたしたちはすでに「魚の楽しみ」をめぐる議論において、他なる存在からの触発によって「わたし」の輪郭が変容しうるヴィジョンを荘子に見てきました。「わたし」と「魚」の世界には区別がある。しかし具体的な配置の中で魚との「近さ」の関係に入ることによって「魚の楽しみ」へと開かれうる。互いに閉じられた区別ある世界の只中で、他なる存在との近さを通じた触発によって「わたし」の同一性が揺らぎながら変容へと開かれること。物化とはつまり、「個別・個体性」の論理と「変容」の論理とを結びつける概念として理解することができるでしょう。》