2021-12-23

岡山大学文学部主催のオンライン対談「芸術のプロトタイプとプロジェクトの社会——現代芸術の現在」(池田剛介×岡本源太)を視聴。現代アートにおいてデフォルトになってしまっているプロジェクトに対して「プロトタイプ」という概念をたてているのがエリー・デューリングで、その議論を前提とした二人の対談。池田剛介さんたちのやっている浄土複合スクールが出している『Jodo Journal』の次の号にはプロトタイプに関するエリー・デューリングのテキストとインタビューの翻訳が掲載されるという(これはすごく楽しみ)。

プロジェクトはプロセスを重視する概念であり、プロセスは閉じられることがなく無限に開かれている。このような「無限」との関係において、プロジェクトという概念はロマン主義的である、というのがエリー・デューリングによるプロジェクト批判の大筋だ(シュレーゲル「ロマン主義は無限の生成のプロジェクト」)。それに対し、試作品としてオブジェクトをつくることで一旦閉じる(可能性を切断する)というのがプロトタイプという概念。

(以下はぼくの記憶と関心に沿った偏ったメモであって、対談のバランスのよい正確なレポートを目指すものではないです。)

岡本源太さんはプロジェクトとプロトタイプの違いとして、「可能性」に対する態度の違いを挙げていた。プロジェクトにおいて「可能性」は既にあり、しかし可能性は無限にある。その無限にある可能性を尽くしていく(埋めていく)のがプロジェクトで、故にそれは終わらないプロセスとなる。

一方、プロトタイプにおいては、実在性が可能性に先立つ。つまり、プロトタイプにおいては、試作品を作ることではじめて可能性が生まれる(可能性が発見される)。全体(無限)が先あって、それを埋めていくのではなく、オブジェクトの制作によって加算的に(制作以前にはなかった)可能性が付け加えられていく。

また、池田剛介さんは赤瀬川原平を取り上げ、彼がプロジェクトをどのように「閉じた」のかについて話していた。クリストの「梱包」する作品(プロジェクト)の、まさに無限に拡張していくことのロマン主義的傾向を指摘した後、同様に「梱包」する作品(キャンバスを梱包し、家財道具を梱包した)を制作していた赤瀬川が、そのプロジェクトをどのように閉じたかを示す。梱包の自動的拡張を嫌った赤瀬川は、一挙に最大のものを梱包することへ進むことで「梱包」の行き止まりを示す。それが「宇宙の缶詰」の制作であり、缶詰というオブジェクトで宇宙全体を梱包することでプロジェクトを閉じることができた。

同様に、いくらでも拡張可能であり、いつまでも続けることの出来る「トマソン」というプロジェクトについては、その現場写真をオフセット印刷して、「箱に閉じ込める」ことでプロジェクトを閉じる。写真もオフセット印刷もどちらも複製物であるが、印刷することで「生もの」を「乾き物」に変えると赤瀬川は言っているそうだ。生きて動いているものを乾物としてフィックスして箱に閉じ込める。作品を乾物化(ミニチュア化)して箱に詰めるという行為はデュシャンを連想させるが、デュシャンと赤瀬川の間には50年のタイムラグがある。プロセスを閉じることにより、いま、こことは異なる、(デュシャンと赤瀬川の)時間を超えたアナクロニックな共鳴が可能になる。

プロジェクトにおいては、一方にアーカイブという様態があり、これは過去のフラグメントであり、過去のものを無限に蓄積していくということだ。もう一方にリレーショナルがあり、これは未来のフラグメントであり、未来に向けて無限に開かれつづける。この二つ方向の無限は鏡像的であり、それらがぶつかり合う鏡の場としての「いま、ここ(未完成)」が特権化される。対してプロトタイプは、まわりの価値観とズレたものをつくり、それを閉じることで「いま、ここ」から切断され、複数の違った地平を形作り、アナクロニックな共鳴を可能にする(プロトタイプには、いま、ここがない)。

プロトタイプは、無限に開かれる(未完成の美学である)プロジェクトと異なるだけでなく、完成された作品という概念とも異なる。それは試作品であり、縮減模型としての芸術であり、アマチュア仕事を想起させる。休日にガレージでモノをつくるような、アマチュア仕事であることの積極的可能性。気軽につくれるということは、失敗を恐れず(権威に気を遣わず)大胆になれるということでもある。

そして、モノをつくる時に重要なのは「失敗することが出来る(失敗する可能性に開かれている)」ことだ。つくる前から成否が分かるものをつくる意味はない。

池田剛介さんが言っていたことでとても興味深かったのは、プロジェクトが「プラクシス」であるとすれば、プロトタイプは「ポイエーシス(自分と切り離されたものが作られる)」であると言えるが、この二つを必ずしも対立的にとらえる必要はなく「プラクシスのなかにポイエーシスを織り込んでいく」ということが重要ではないかということだった。