●『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』上映終了か。座席数84席の小さい劇場で、一日に一回だけ上映される映画の感想が、こんなにたくさんツイッタ―にアップされているというのは、かなりすごいことなのではないか。観ると、何か言いたくなり、人に勧めたくなる映画なのだろう。今まで知らなかったものを発見した、みたいなよろこびがある映画なのだろうとも思う。
https://twitter.com/villageon_movie
一昨日の上映の時に監督に、「黒川さんは業界の人だから、この映画を海外に紹介するツテとかあるんじゃないですか」と聞いたら、「ないことはないけど、自主映画の人はそういうことも自分たちでやっているから、この映画も自分たちでやりたい」と言っていて、そういうことなのかと納得した。ピンク映画の監督、脚本家としてプロである黒川さんが、自主制作で映画を作ることの意味は、ピンクという枠ではつくれないような映画をつくるというところにだけあるのではなく、上映や宣伝など、観客に届けるところまでちゃんと、自分たちの手と考えと責任でやりたいということもあるのか、と。
(これからこの映画は、日本の各地へ、海外へと、上映が広がってゆくのだろうと思うけど、この映画が一人でも多くの人に発見されることになればいいと思う。)
https://www.youtube.com/watch?v=DBYd5txe4fw
https://www.youtube.com/watch?v=gd1r4sxQLFQ
●別の話。以下の引用は、「レトロ未来」(エリー・デューリング)より。「10+1」の鼎談とあわせて読むと、デューリングの考えていることが、そうとうヤバいことだとわかる。《未来は現在に完全に、少なくとも何らかの様態ですでに存在しています》。《未来と現在は、まったく同時なのです》。引用の最初のブロックは、デューリングによるベルクソンの要約で、二つ目、三つ目、四つ目のブロックが、それを受けてデューリングが発展させた考え。
(このテキストを翻訳した新村一宏という人がネットにアップしたPDFを、以前どこかで拾ったのを引用しているのだが、どこで拾ったかわからなくなってしまった。もとは「表象・メディア研究」第5号(早稲田 表象・メディア論学会)所収。)
《純粋過去は、直接的に過去なのです。純粋過去は、最初から過去として形成され、この意味で現在と過去は共存しています。同様に、記憶は知覚が過ぎ去るのを待つ、ということもありません。記憶と知覚は同時だからです。記憶は知覚の弱まった反響ではありません。むしろ、記憶は知覚の鏡に映った像であり、潜在的な分身なのです。各瞬間に、知覚は現在と過去に、知覚と記憶に分裂し二重化しています。時間とは、この分裂そのものなのです。》
《過去が過ぎ去った現在に属するものでないのならば、過去が現在の枯れた外皮や時間の流れの残留物以外のものであるのならは、過去が本当に決して現在であったことがないのであれば、同じことが未来にも言えるはずです。未来は、一種独自の、固有の存在様態を享受しています。未来は、待機状態の、現実になることを待っている現在ではないのです。また、未来は、こうなるだろうという単なる現在の表象ではりません。たとえ未来が決して現在に現実化することがなくとも、未来は現在に完全に、少なくとも何らかの様態ですでに存在しています。その様態こそが、レトロ未来なのです。この未来は、非現実ということとは全く異なります。現時点からすでに、この未来は過去からみた未来として活動しており我々が「未来」と呼んでいる現在からみた未来は、過去の未来によって培われているのです。そうすると、未来は過去の沈殿物にすぎないのかもしれません。》
《別の言い方をしましょう。未来は我々の前に、未踏の領域として広がっているのではありません。未来は、現動化を待っている可能性として現在より前にあるのでもなければ、その可能性の実現として現在より後にあるのでもありません。未来と現在は、まったく同時なのです。それは、過去の未来によって開かれた展望です。未来の存在様態とは、現在と何かしら並行なものなのです。》
《それは未来として見られた現在、我々の時代のただ中に存在し続け、奇妙に入り込んでくる何かしらの過去から見られた未来としての現在です。》
●この感じは、最近、上妻世海さんによって翻訳が公開された、ハーマンによるグリーンバーグ読解にも通じているように思う。ハーマンは「グリーンバーグアヴァンギャルド」をレトロ未来として扱っている、という感じ。
グリーンバーグデュシャン、そして次なるアヴァンギャルド」(グレアム・ハーマン)
https://note.mu/skkzm01/n/ne0c483f7e06f