●「レトロ未来」(「表象・メディア研究」第5号所収)と「共存と時間の流れ」(「ベルクソン『物質と記憶』を解剖する」所収)を読み返していた。この二つと、「思想」のヴィヴェイロス特集に載っていた論考(「スーパータイム」)をつきあわせることで、エリー・デューリングの関心のより大きな図柄がみえてくる。エリー・デューリングをもっと読みたい。
●引用、メモ。「レトロ未来」より。ベルクソンにおいて、過去(記憶)が現在と同時にあるのと同様に、未来もまた、現在のただ中に(「過去から見られた未来としての現在」の束として)、潜在的に存在する。
《それは未来としてみられた現在、我々の時代のただ中に存在し続け、奇妙に入り込んでくる何かしらの過去から見られた未来としての現在です。》
《意識はその時現在に未来の亡霊を、真に「不気味なもの」を映写します。ここでは、フロイトに限らず、マルクスの亡霊の強迫観念に関するデリダの長大な考察を思い浮かべることができるでしょう。しかしながら、この「亡霊」という観念を類推できるとはいえ、私がここで論じたい未来の存在論は、(共産主義、救世主なき救世主待望論のような解放の約束といった)亡霊的存続や残光というような非物質的な痕跡の理論とは相いれないものだと思います。亡霊に取りつかれているという考えは、なお心理的主体の投影に強く結び付いています。私は、記憶の作用を現実の領域に結び付け、存在論の領域で問題を定式化しなければならないと考えます。いわば、少なくともこの意味では私は、ベルクソン主義者であるわけです。》
《さて、この観点からすると、過去の未来はつねに現在の知覚へと二重化しているかのように進展します。これは、直接の記憶は潜在的に各知覚を二重化するという、ベルクソンが説明した現在の記憶と正確に同じではありません。正確に言うなら、現在それ自身の内容以外に何も含んでいないのは、過去から見た未来の投影によって二重化された現在なのです。》
《ベルクソン風に言えば知覚とまったく同時である現在の記憶が、存在しているはずなのです。来るべきものとしてとらえるなら、現在は知覚の対象であると同時に、予感の対象でもあることになります。現在は、予感されると同時に生きられ、生きられるものとして予感され、投影されると同時に生成するのですが、いわば、我々の背中に、過ぎ去った時間の光のように投影されるのです。》
《(…)問題は、ノスタルジックな回顧とは全くちがったやり方で、その当時の時間の弧を我々が感じることができるのか、つまり、当時はまだ潜在的で、その時の現在とほとんど見分けがつかない未来化の線にすぎなかった歴史の回路を、我々の現在のただ中まで延長して混ぜ合わせ、感じることができるか、ということにあります。》
《現在から見た未来は、未来に関係するのでもなく、また過去に関係するのでもなく、とりわけ現在に関わるのだと言いました。(…)潜在的であるレトロ未来は、まさに昨日と今日の間にあるのです。しかし、その力は現実のものであり、その力は事物が時間の作用によって自ら生成し、自らを創造していくまさにその過程のなかに、立ち現れるのです。》
《本当に同時代的で、創造的ポテンシャルを秘めているレトロフューチャリズムは、未来としての自分自身のイメージを生みだすことができる現在として、また同時に過去のイメージを生みだすことのできるものとして、際立っています。その過去はレトロ未来に含まれるものであり、レトロ未来が必然的にこれに遅れるのは、レトロ未来は過去よりも遠くから来たのであり、あらゆる世代によって作られ、我々が知らずに受け継いだ過去、我々の現在はそれにとっては投影か白昼夢のようであるけれど密かに作動している過去に、このレトロ未来は関連するからです。》
●引用、メモ。「共存と時間の流れ」より。空間的に非連続的なものの共時(共存)性について(双子のパラドクスの共時性)。
《ホワイトヘッドは相対論的な時空の光円錐構造から引き出して、「共時的な出来事」ないしプロセスと彼が呼んだものの別のモデルを考案した。すなわち、それらの出来事は相互に因果的に独立しているという関係にあるので、時間順序に関して不定だ、というものである。共時性はこの意味で非接続を含意する。共存のそのようなモデルは(物理学者の言葉遣いで言えば空間的に切り離されている)出来事のあるクラスに限定され、時空の経路や持続の広がりへと容易に一般化されることはない。それにもかかわらず、このように共存を非接続として否定の形で定義することは、私たちが経験する拡がった現在の現象学的な特徴をうまく捉えている。その特徴とは、手紙を出して、その返信をややどうしようもなく待っている時間のように、信号の放射とそのフィードバックの受容のあいだに経過する時間が不在や空虚によってくりぬかれていることである。ホワイトヘッドは、共時性の関係が「高度な有機体においてはじめて重要性をもつ」という事実を認めている。双子の事例(双子のパラドクス)は好例になる。つまり、二人は切り離されているが共時的であって、事態はあたかもある程度の(空間における?)非連続が(時間における?)接続と弁証法に絡み合うかのようだ、というわけである。コミュニケーションする双子というランジュバンのシナリオはこのことをうまく描き出している。双子が電磁信号を(ドップラー効果を考慮しつつ)交換するとき、彼らはベルクソンの言う意味で連続的に共存しているが、ホワイトヘッドの言う意味で互いに共時的でもある。すなわち、少なくとも部分的に。そしてはっきりとは「連続的」でないという仕方で。なぜなら、双子はいわゆる「実在的な時間」においてコミュニケーションできてしまうのだから。》
●持続(固有時)と「時間」の違いについて、時間は複数の持続(固有時)の関係として生じる(ここは「スーパータイム」と密接に関係している)。
《固有時が時間的な意味を獲得するのだとしたら、それは私たちが後退して、持続を算定できる基準線として働く二番目の固有時を少なくとも導入するときだけである。そういうわけで、双子がそれぞれの持続を相互的に観察する方法を考察するや否や、双子の共存はまさしく時間的な事柄になる。実は、なんらかの持続を物理的に測定することに関わる現実的な手続きには、すでにこのことが含まれている。ある運動(あるいはより一般的にはある一連の生成、例えば一時間あれこれのことをする)を、基準としてとられた別の運動(あるいは一連の生成、できれば周期的なもの、例えばビートや振動、またその類いのもの)と対照させて描くのでなければ、時計は何をするのだろうか。時間の関係的な説明はこの基礎的な洞察から導き出される。すなわち、物理学的な時間概念を、状況に関係するもろもろの動的な量のあいだの交換率を固定する一種の操作子とみなすわけである。したがって、あたかも時間が〔事物の〕根底に横たわるある種の性質であるかのように、時間そのものを取り扱うことなどできないのである。もろもろの持続を測定することは、いくつかの他の物理学的な変数を比較することなのである。時間は少なくとも二つの固有時の比較から出現する。》
●これを、「時間」はパース的な第三性としてある、と言い換え得るのか。