●まとめて要約することで上から押さえつけようとする力にはつねにあらがわなければならない。
我々の生や認識が有限である以上、まとめ、要約することは不可避であり、必要不可欠でさえある。あらゆるものごとに直接触れることはできない。それがなければお先真っ暗だ。
しかし、未だ結果が未確定である行為を手探りで行っているときには、上から降ってくるまとめや要約は、行為や試行にとっては害悪となる。試行的な手探りの行為中に必要なのは、こっちではないし、かといってあっちでもないことはわかっている、だとすればどうすればいいのか、というような、「〜に非ず、〜に非ず」というような、試行的な行為にかんする個々の判断のための否定を媒介とする指針であり、あるいは、全貌はつかめていない(間違っているかもしれないし、胡散臭いかもしれない)が、この流れには乗っておくべきではないかという、ぼんやりとした方向性の予感(勘)のようなものだと思う。
もちろん、それは致命的に間違っている可能性がある(間違っている可能性のある行為だけが「新しさ」を開く可能性がある)。しかし、まとめや要約によって行為が止まってしまう(ニヒリスティックな現実主義に陥る)よりは、あるいは上からの規定による権力に縛られてしまうより、間違っていたとしてもいろいろ試行していた方がいくらかマシではないかと思う。
●そもそも、上からやってくるまとめや要約が「間違っていない」という保証は何処にある?