●「批判」と「異論」は違うという、『心の哲学入門』に書かれていた指摘はとても有益だと思う。「批判」とは、同じ文脈を共有し、その文脈をよりよい(より厳密な、正確な、精密な)ものにしてゆこうとするための行為であり努力である。だから「別の文脈」を示そうとする「異論」とは異なる、と。
あるいは、「批判」はゲームに乗っかって競争し、それを通じてゲームを盛り上げようとすることであり、「異論」は可能な「別のゲーム」を立ち上げようと努力することだろう。だから、その文脈には乗っかれないなあとか、その方向で行っても可能性を感じないなあという場合には、批判はできない。その場合はまったく別の前提を示して「異論」をたてるしかない。しかし、「異論」は既成の文脈を共有しない場合、そもそも言説として認められないことが多い。別の文脈があり得るということを認めてもらうのは、それだけで相当たいへんなことだ。
●例えば「科学」は批判のみにより成り立ち、「異論」を認めない営みだといえるのではないか。あるいは、科学で「異論」は、複数の文脈を統合できるか、既成の文脈を完全に包摂できるときにのみ、認められる。つまり「異論」が成り立つときには次のステージに進むことになる。例えば相対論は、ニュートン力学を完全に包摂し得るし、それによって、世界に関する、より広い範囲にわたっての、より詳細な描像と、より精密な予測が可能になることによって、認められる。科学は統合的で排他的であり、究極的には統一された「一つ」の理論の構築を目指す。相対論はニュートン力学の上位審級となり、ニュートン力学はローカルな場面にのみ有効な、近似値を求める手段という位置に格下げになる。
対して、「文化」は、権利上は無限に並列的な「異論」が可能なものであろう。文化は、「排他的でないことも可能」である。しかし、現実的にはしばしば排他的になる。「文化」における優劣は、その内容であるよりも、外的な要因(軍事的、政治的、言説的、階級的、経済的、メディア的な権力の優劣)によって決まる場合が多い。勿論、文化そのものに内包する伝播力も無視することは出来ない。とはいえ、異なる種が、同一の環境のなかで、互いに競争することなく棲み分けることが可能であるように、それぞれに対する「異論」である異なる文化が棲み分けることは不可能ではないはず。
ガブリエル・タルドは、人間は個である時にもっとも複雑、複合的であり、集団性の度合いが上がるほどに単純になると主張している。その主張を発展させて考えると、究極的には「一人一文化」であり、文化としては人の数だけ「異論」があり得るとも言える。その時、文化とはまさに魂の入れものと言える。少なくとも「原理的」には、無限の多様性≒魂が可能であろう。
しかし現実的には、どの程度の多様性が容認されるのか(つまり、競争せずに――排他的ではなく――並列的に棲み分けが可能か)については、「環境(世界)」がどの程度の「異論」の多様性を受け入れ得る原資を潜在的に有しているかによるだろう。つまり「環境」に依存し、無限の多様性までは許されていない。「ある文化」の存在は、もしかすると現代の環境によっては許されないものかもしれない。ある生物種が絶滅するように、ある文化は途切れるかもしれない。
さらに、環境の可能性が充分に使われないこともあり得る。ある環境では、複数の異なる種の棲み分けが充分に可能な原資があるにもかかわらず、爆発的に増殖した一つの種によって埋め尽くされてしてしまう、というような。
だからこそ人は、自分の生(魂)の存続のために、「わたしの属する文化(≒わたしの魂)」を存続、拡張させ、他の文化に対する優位性を主張し、他の文化に対する上位審級となることを目指して政治的・排他的抗争を行ったりもする(わたしはこの作品をどのように愛しているか、ではなく、わたしの愛するこの作品をどのように「正統な歴史」にそして「世界」に認めさせるか――わたし(たち)の魂を認めさせるために――というような戦闘的な動機)。そもそも異なる「文化(異論)」間では、「科学(批判)」とは違って、同一文脈内でのロジック(や実験結果の予測の正確さなど)によってフェアに争う(正誤を決める)ことが出来ないから――だからこそ「多様」であるのだけど――必然的にそれは外的な要因(諸々の権力の合わせ技)による争いになる。
(例えば、相撲の土俵に女性が上がることを容認すべきかそうでないか、といった問題には、論理的な「正解」はないので、異なる文化間の政治――力の調整――によってしか決着できない、というような。)
以上のように、現実的には諸々の制限があるが、そうだとしても、文化は基本的に批判ではなく異論として並立的に存在し、多様に展開し、変化し、分岐し、棲み分けるという方向をもつだろうと思う。科学とは異なり、文化は「棲み分け可能性(多様性)の最大化」についての実践であり、試行であると言えよう。「この世界」のなかに、どれだけ多様な「異なる魂」の同時共存が可能なのか、と。
よって、文化における問題は、何が正しいか(正義か)という問いではなく、どこまでの「異論」なら環境を破壊する(世界を破綻させる)ことなく許容-共存可能かという生態系的な問いになるだろう。科学が、世界をどこまで統合的、統一的に記述できるのかという問いであるとすれば、文化は、世界はどの程度の多様性を受け入れる素地があるのかという潜在性についての問い(試行・実践)だと言えよう。そしてそれは、どうすれば許容-共存の範囲(多様性)を最大にできるか、という技術的な問いを含む。
●アトリエにて。