●『心の哲学入門』(金杉武司)を読んでいたら、心物二元論が成立しないことを示す背理法の証明というのが出てきて面白かった。
例えば、カレー屋の前を通るとカレーの匂いがして、カレーが食べたくなってカレー屋に入った、という出来事があるとする。これを因果的に考えると、物理的刺激→カレーの匂いの知覚の発生→カレーを食べたいと言う欲求の発生→身体運動、という因果の流れになると考えられる。その時、知覚から欲求への因果は心と心の間で起きるもの(心心因果)だが、刺激から知覚へ、欲求から運動への因果は、心と物の間で生じる因果(心物因果)であることになる。しかし、もし心物二元論をとるとするならば、物が心の働きに、心の働きが物に影響を与えることになり、物の因果と切り離された心が物に、心の因果と切り離された物が心に作用することとなり、そうすると「念力」のようなものまで認めなくてはならなくなる、と。
前提1 心物因果は成立する
前提2 (背理法の仮定)二元論は正しい(心物因果=非物理的なものと物理的なものの間の因果である)
前提3 非物理的なものと物理的なもの間の因果関係は、念力に等しい
前提4 念力による因果関係は存在しない
結論1(前提2、3から) 心物因果は念力の因果に等しい
結論2(前提4、結論1から) 心物因果は成立しない
結論3(前提1、結論2から) 心物因果は成立する、かつ、成立しない
結論4(前提2、結論3から) 前提2(二元論)は誤り
●しかしここで、心と物との間を貫く因果関係においても、物理法則のような厳しい「縛り」があると考えれば、この背理法は必ずしも成立しなくなる。心の状態は物の状態に何かしらの影響を与えるのだが、そこには一定の規則があり、カレーを食べたいという欲求(心)が体(物)を動かす因果はあり得ても、「動け」と念じて物が動く念力のような因果関係はあり得ない、と考えることは可能だ。つまり、前提2と3から、結論1が必ずしも導けるとは言えないのではないか、と思う。心と物質の相関の間には実は厳密な法則がある(心が物に、物が心に与える影響はきわめて弱く、限られている)のだが、その法則がまだ分かってはいないのだ、と仮定することは出来る。例えば、心物因果は一人称的な範囲に縛られた形でしか作用しない、などの可能性を考えることは非常識とは言えないと思う。
(上の仮定や二元論が「正しい」と主張しているのではなく、このように「考える」ことが可能である以上、この背理法による二元論の否定は成立しないのでは?、と言っているだけ。)
たとえば、「光速」が、なぜ、時空に関する唯一の基準であり得るのかということの「理由」は誰にも分からないが、何故かそうなっているのだ、というのが「この宇宙」の物理法則(基本設定)なわけだから、同様に、なぜか知らないが、心物因果は、自分の心と自分の体の間では(完璧ではないとしても)一部限定的に成り立つが、念力のような形では成り立たないような規則として「この宇宙」では成立しているのだ、ということもあり得るのではないか。
(あるいは、心と物とは、互いが互いの環境であり条件であるという、オートポイエーシスにおける構造的カップリングのような関係にある、とか。そういうこと――どうやったら二元論を救えるのか――を考えることは出来るのだが、いろいろ無責任に考えることと、それを検証することは別なのだが。)
●それとはまたちょっと別の話。この本には、異論と批判は違うということが書かれていてなるほどと思った。
異論とは、ある主張に対し「異なる結論」を導く「別の議論」を提出することだ、と。対して批判とは、元の議論の「結論を導出する過程」に対して異を唱えるものだ、と。そして批判には、(1)議論の「前提」が違っていると示すものと、(2)結論を「導出する過程」が違っていると示すものの二種類がある、と。「AならばBである」という主張があった時、異論は「Bではない(Cである)」と主張する別の議論を組み立てることで、批判(1)は、「Aではない(よってBとは言えない)」と主張し、批判(B)は、「Aだからといって、必ずしもBが導かれるわけではない」と主張することになる。
例えば、「中絶は殺人である、故に禁止すべきだ」という主張に対し、「中絶は殺人とは言えない、故に禁止すべきだとは言えない」という批判(1)があったとして、「正当防衛など、殺人だからといって必ずしも禁止しろとは言えない場合がある」という批判(2)があり得る。そして、「母親の権利や生活を考慮すると、中絶は禁止すべきではない」という異論(別の議論)もあり得る、と。
そして、批判はかならずしも「結論」を否定しない。批判(1)にしても批判(2)にしても、別の前提、別の導出過程が考えられれば、「禁止すべき」という主張は同意される可能性がある、と。だから批判は、元の議論との対話であり、協働であり得る、と。