●下の写真は、最近買った本と、図書館から借りた本。だからどれも、(『仏教思想のゼロポイント』を除いて)まだまったく読んでいないか、少ししか読んでいない。
最近の大雑把な関心。まず、クリプキクワインデイヴィドソンがやった仕事を、もうちょっとちゃんと知りたい(それと、ジェイムズとパースも)。そしてそれが、ラトゥールのアクターネットワーク論から人類学へと伸びてゆく流れと接続し得るものであるのか(どの程度似ていて、どういう風に違うのか)を考えたい。さらに、それらのものと、「脳」や「意識」、「クオリア」に関する研究との関連を考えたい。最終的な関心はそこにある。
これはあまりに大雑把な把握による見取り図だし、しかも領域が広すぎて、そんなことを考える能力が自分にあるのか大いに疑問だが、興味の方向性としてそんな感じ。
とはいえ、ぼくは研究者はないので、これらの関心は皆、基本的に「作品」というものについて考えるためのものだ。ぼくには、最近の「社会的転回」以降の美術がどうにも面白くない。そのなかで、(関係性には解消されない、というか、関係性のなかでこそ生じる)「クオリア」はあるのだ、と言いたい。それを言うためには、上記のことがらについて考える必要があるのではないか、というのが現時点での認識(というか、いろいろ考えた結果として、やっぱそれは言えない、ということになるかもしれないのだが、実際、ぼくとかなり近い関心領域を参照することで、「意識」も「クオリア」も存在しないと主張する河野哲也『意識は実在しない』という本を最近読んだ)。
そうでないと、セザンヌマティスが、「モダニズム」という既に終わったものの範疇に収められてお終い、とかいうことになりかねない。セザンヌマティス(そしておそらくそれらの「裏」としてのデュシャン)への回帰は、決してモダニズムへの回帰ではなく、「意識」や「クオリア」への回帰なのだ、と思う。
●あと、テクノロジーの進化(変化)に対する興味がある。テクノロジーは、様々な根本的「問題」を、解決しはしないにしろ、まったく別物に書き換えてしまう。テクノロジーは、我々が「生きる」ということそのものの条件(環境、地)を変化させしまう(そしてそれは「資本」と切り離せない)。そこにあるのは切断であり、あるテクノロジーが可能にした何かによって、それ以前とそれ以後とを比べることすら困難になってしまう。図が変わるのではなく地が変わるのだから、そのテクノロジーによって世界が良くなったのか悪くなったのかを比較することもできない。それは、ある信仰を得た人が、それ以前の自分のことをもう理解できなくなってしまうであろうということと、たぶん似ている。
だからきっと、多くのSFは、アイデンティティに関する思考実験と考察という形になるのだと思う。「それ以降」の人間にとっては、自分が「それ以前」とどう違っているのかさえもう分からないという条件下において、連続性と不連続性について考えなければならない、というような。