●ぼくにとっては、絵画は、光と重力によって紙一重で現実(世界)とのつながりを見出し得るというものだ。絵画は光と重力のなかにあるもので、光と重力との関係において成立する。光と重力に抗するとしても、それは光と重力のなかで、光と重力との関係において、それに抗する。そこを見失うと、なんでもありになり、つまり、なにをどうしたらよいのか分からなくなる。
(例えば、イメージはそれ自体としては重力を伴わないが、絵画としてイメージを取り扱う時、それはなにかしらの形で重力との関係が見出されなければならなくなる…、とか。)
●サントヴィクトワールを描いたセザンヌが、その山を形作った、人間的なスケールを越えた地殻の運動を意識していなかったはずはない。あるいは、セザンヌ第一次世界大戦を知らずに死んだけど、マティスは、第一次世界大戦下でも第二次世界大戦下でも生きていたし、ナチス占領下でもかわらずあんな絵を描いていた。
だが、セザンヌがあくまで自然=土地を根拠とした画家であるのに対し、マティスが部屋=アトリエ内の画家であるというのは、マティスが戦争による根底的な「土地そのものの破壊」があり得ることを知ってしまったということもあるのかもしれない。だからそれ(環境)は、アトリエ内で(あるいは絵画というフレーム内で)一から人工的につくられなければならない(それを可能にしなければならない)と考えたのかもしれない。そういうことを前よりリアルに意識するようにはなった。
しかしそのようなマティスにおいても、光と重力は「そこ」に前提として条件として既にあり、それは人工的につくりだすことが出来ない。だからこそそれは、絵画と世界との結びつきの根拠となり得た、のではないか。
●しかしこれは単純に図式化しすぎているかもしれない。セザンヌは石切り場を描いている。石切り場とは人工的な自然=土地に対する介入=改変であるから、セザンヌも既に土地そのものの崩壊、あるいは再構築というのを意識していたかもしれない。セザンヌの異様な静物画はまさに、土地そのものの改変と再構築への探求としてあったと見ることができる。
●とはいえぼくは、土地や空間の再構築を、建築や都市計画のような現実的なレヴェルで考えているのではない。ぼくにとって空間とは絵画空間のことであり、つまりそれはイリュージョンである。それはイリュージョンであるからこそリアルなのであり、現実以上に力をもつと考える。ぼくの興味はフィクションも含めたイリュージョン一般であり、イリュージョンの内向性こそが、外へと開かれる契機となり得るんじゃないかと考えている。そして、そのイリュージョンとしての絵画空間と現実のこの世界とを紙一重でつないでくれている経路(というか接点)が、光と重力なのだと思う。