●画家としてのぼくにとっては50年代のアメリカが何より憧れで、でもそれはニューヨークスクール(抽象表現主義)に対する憧れというより、ブラックマウンテンカレッジへの憧れなのだ。ラウシェンバーグとカニングハムとケージが出会うことを可能にする土壌としての、50年前後のアメリカ。ぼくの好みでは、バウハウスよりも圧倒的にブラックマウンテンなのだ。
下記の動画とか観ると、ぼくがやりたいのはこういうことなんだよな、と思う。何かこう、突き上げてくるものを感じる。いや、パフォーミングアーツがやりたいというのではなく、絵画として、こういうことを実現したい。
http://www.youtube.com/watch?v=NLOWy3ys8Ag&feature=player_embedded
しかしもう一方でぼくには、セザンヌやマティス(や西洋近代絵画)に対する強い関心と愛着があり、それが画家としてのぼくの根拠のようなものですらある。これは、重力によってぼくの身体と地球とが結び付けられている(接触している)のと同様の、ぼくと絵画を結び付け、制作を可能にしてくれる起点のようなものかもしれないと思う。それは重石でもあるかもしれないが、それがなければ「何かをする」ことが出来なくなる、というような。
しかし、この双方は、矛盾するわけではない(決して「違うこと」をやっているのではないと思う)が、そう簡単には合流してくれない。でもその合流は、不可能な何か、不可能であるが理念としてたてられる目標のようなものではなく、いろんなことがうまく重なれば、すっと出来てしまうというようなものなのだと思う。「いろんなことがうまく重なってくれるようにふるまう(世界にはたらきかける)」というのが、制作するということなのかもしれない。