●有原友一、高木秀典展のトーク。個人的にはいろいろ反省するところが多い感じになってしまった。作家の制作話を聞いて、適宜つっこんだりする軽い感じを想定して、あまり準備などもせずに臨んだので、「絵画」とか「絵画性」みたいな大きな話に対応できなかった。
「絵画」と言ったとたんに、膨大な歴史と参照すべき様々な議論の蓄積が押し寄せてきて、しかしその一方、個々の作家や観者は、素朴な(実践的な)次元でそれぞれに「絵画というものに対する感覚」を持っていて、不用意に「絵画」と口にすると、その両者が混ざった曖昧な領域を指す言葉になってしまい、何を言ってもなんとなく納まるけど、あまり何も言ったことにならない感じになりがちだとぼくは思っている。
「絵画」と「言う」ことの面倒くささ。「絵画」という語にはあまりに多くのコノテーションがこびりついてしまっている。だから、おそらく今のぼくは「絵画」と言いたくないのだと思う。あるいは、画家たちの内輪でしか「絵画」という話はしたくない。でも、その場が「絵画」という語が飛び交う場である時に、それにどう対応すべきなのかという自分としての態度が定まってなかったな、と。
(「絵画」という語はあまりに多義的で、その指示対象の幅が広すぎる。たとえば、絵を描いているぼく自身を支えている信仰に近いものとして「絵画」としか呼べないある感覚の状態があり、社会のなかにある「芸術の世界」における「絵画」の定義や位置付けや価値判断があり、歴史的に続いている「絵画」という実践の持続とその変化がある。これらのものは、相互に干渉していて完全には切り分けられないとしても、あくまでそれぞれ別のものである。別のものではないのかもしれないが、一つに溶け合いはしない。そういう面倒な錯綜体として「絵画」観がぼくの内部にあり、しかしそれを外に発語しようとする時、ぼくのもつ複雑な感情が共有されるとは思えないし、その錯綜を短時間で明確に他人に説明できるわけでもないので、今、問題になっている「絵画」というのは、この三つの座標からなる三次元空間のどのあたりの位置、あるいは領域にある「絵画」なのかということを自分なりにある程度限定した上で発語しないと、ただ曖昧なことを曖昧に口走ることになってしまう。というか、なってしまった。)
現在、個々の、個別の作品の成立が「絵画である」という根拠によって支えられることが困難になっている(「絵になっているか、なっていないか」が、絵画作品の判断基準として絶対的に存在している、とはもはや言えない、「絵になっている」から作品として偉いとはもはや言えない)とぼくは感じているのだが、その一方、どのような作品であれそれが絵画であるならば、「絵画」という一般概念との距離によって測られざるを得ない(「絵になっているか、なっていないか」という判断を完全に捨ててしまったら個別の絵画作品は成り立たない、あらゆる絵画は歴史的に「絵画である」ことの内にある)ということも依然として事実としてあるとすれば、絵画作品を取り上げるのならばどのみち「絵画」という問題を避けることはできないのかもしれない。
だから、「絵画」と「言う」ことを避けたいというぼくの態度は、個々の作品を前にした時にさえも常に大問題にぶつかってしまい、その都度立ちすくんでしまう、あるいは大言壮語に陥ってしまう、ということをとりあえず避けるための「逃げ」の姿勢でしかないとは言える。それによって「絵画」という問題が消えるわけではない。とはいえ、十分な準備、あるいは適切な限定なしにいきなり大問題に切り込んでゆくと、そこには不毛な言葉の空転が待っているように思われる。それを避けるために、とりあえず「絵画って言わない」こと(ジャンル・メディウムを根拠としないこと)からはじめるのは実践的にある程度有効である気がしている。
絵画作品について「絵画って言わない」で、どこまできちんと迫れるのか、と。とはいえ、こういうやり方を志向すること自体が、暗黙のうちに「絵画」を神聖視してしまっていることになるのかも。