●武蔵野美術大学の芸術祭で郷正助の作品を観た(5A号館309A「四面」)。衝撃的というのではない。いままでに観たことのない新しい才能というわけでもない。それは、ぼくが今までもよく知っていたオーソドックスな絵画の一つだ。そして、たんに絵画として飛び抜けている。それはたぶん、石川遼が飛び抜けていたり、ダルビッシュ有が飛び抜けていたり、浅田真央が飛び抜けていたりするのと同じような意味で、飛び抜けている。それはまず、才能として優れているということであり、そして、自分の作品に対する志の高さ、自分の作品に要求する質の高さとして優れているということだ。そしておそらく、自分の作品を肯定する強さとして、優れているのだと思う。ぼくは、その作品の前に立って作品を観ながら、自分自身の絵画に対する取り組みの甘さを痛感させられるという経験をした。正直言って、過去の巨匠ならともかく、現役でやっている画家の作品観て、そのようなことを感じることは、今まであまりなかった。勿論、すごいとか負けたとか思うことは多々あるのだが。自分よりも才能がある人や、自分よりも絵が上手い人、自分よりも頭のよい人なら、掃いて捨てるほどいるだろうけど、自分よりも絵が好きな人など、そうざらにいるとは思えない、などと思っていた。しかしそれが思い上がりだと知らされた。
面白いとか、刺激的というのとは違う。すごいという言い方も、ちょっと大げさに力が入ってしまうから違うように思う。そういう力んだ何かとは根本的に違うものだ。たぶん「良い」という言葉が一番ぴったりくる。まず、いいなあと思う。絵画というものは、こんなにも良いものなのだという思いがじわじわわき上がってくる。気持ちが楽しくなってくる。自分が描いた絵ではないのに、この絵によって自分が画家であるということまでもが肯定されているようにさえ感じられた。そして、絵が描きたいという思いがふつふつとわき上がってくる。しかし、絵を描くと言っても、今までと同じ気持ちではダメなのだとも思う。この絵を観てしまったからには、自分の作品にそう簡単にオーケーは出せなくなる。しかしそれは、今までの自分の制作や努力を否定するものではない。身を引き締めさせる、というような厳しさとは別種の厳しさが要求されている(緩さ、と言ってしまうと、それは違うのだ)。それでは足りない、もっと、もっと、もっと良いものが可能なはずだ、という意欲が出てくるということなのだ。それは同時に、絵は、新しかったり、珍しかったりする必要などなく、たんに「良い絵」でありさえすればそれで十分なのだということであり、そのことだけ考えればよいという確信でもある。
この作家はまだ21才だというから、今後どうなるかはまったく分からないし、この人は将来絶対大物になるなどという予言のような(青田買いのような)下らないことはしたくない。ただ、現時点での作品がとても良いものだと思う。そのような作品を観せてもらえたこと、そのような作品が存在するということに、感謝したい。