●武蔵野美術大学に行った。武蔵美の油画科では、学部の三年生が全員参加するコンクール展という学内展示が毎年あるらしい。それが今(今日まで)やっていて、そこで展示されている郷正介の作品がとても良いと聞いたので、観に行ったのだった。
全体として、真面目に絵を描いている人が多くて、しかも結構描ける人が多くて驚いた。ちょっと真面目過ぎて、うわっ、何これ、みたいなはっちゃけたのが無いというのは、逆に問題かもしれないけど。しかし、学部の三年生でこれだけやれるっていうのは、武蔵美のクオリティとポテンシャルはすごいものがあると思った。「学生の作品」という前置きがなくても、けっこう面白いと思う作品がいくつもあった。
そのなかでも、郷正介の作品は際立っていた。まず、一人だけ飛び抜けて展示が「大人な感じ」だった。絵画とインスタレーションが組み合わされているのだが、絵画が行き詰まったから、ちょっと違うことやってみました、という感じでは全くなくて、「あー、こういうことなのか」と納得出来るものだった。絵画作品だけを観ても、前からやっていることを一歩先に進めたというか、深化させた感じで、やっていることはほぼ同じなのに、画面のなかに前とは別の動きが見えて、より複雑になっていて、色彩も、抑え気味にしつつも、互いの関係が密になって、精度が上がっている感じ。センスが良くて、完成されているのだが、小さくまとめた感じはまったくなくて、懐が深く、たっぷりとした多くのものがその内部に含まれているように感じられる。何のケレンもなしに、極めてオーソドックスなことだけをやっているのに、まだまだこの先に大きな可能性があるように感じられる。
無理矢理に粗を探して言いがかりをつけるとしたら、絵画とインスタレーションの関係が拮抗してあるというよりも、インスタレーションが絵画の「説明」のようにも見えてしまう、ということくらいか。それはとても高度で説得力のある説明なのだが。実際は、そういうことではないのかも知れないけど、インスタレーションが、ある種のネタバラシのようにも見えてしまう。しかしこれはほとんど言いがかりに近い厳し過ぎる見方ではあると思う。インスタレーションだけを観てもかなり魅力的なのだが、やはり絵画の方が主に見えるよね、ということだから、絵画作品がそれだけ強いということなのだ。
こういう作品があり、こういう若い作家がいることは、ぼくにとっても大きな励みになる。とても良い作品が観られて気分がよかったので、普段は一人の時は外食はしないことに決めているのだが、帰りにトンカツを食べることを自分に許した。