●カマキリがアスファルトの上を必死で走っていた。カマキリは、植物のなかにいるとシャープでとてもかっこいい佇まいだけど、平面を走る時は長い尻が邪魔して、とても間抜けな走り方になる。
●今日も一日、部屋で映画を観て過ごす予定だったが、二本目に『ションベンライダー』を観たら、受け入れる容量が一杯になって、あふれ出てしまい、もうこれ以上はムリ、ということになった。
十五歳の時にはじめて観て以来、最低でも五十回以上は観ているはずだか、今でもまだ、この作品を冷静に観ることは出来ない。
とはいえ、さすがに多少冷静にはなっていて、子供にこんな無茶なことさせるなんて酷いなあとか、この物語自体はどうしようもなく面白くないなあとかは思う。
きっと、こんなにつまらない話を映画として成立させるためには、よっぽど無茶でもしなきゃどうしようもないだろうと、相米慎二は考えたのではないか。それは逆にいえば、話がここまでつまらなくなければ、さすがの相米でも、こんなにまで無茶はしなかったのではないか、ということだ(『セーラー服と機関銃』の直後で、「調子こいてた」ってこともきっとあるのだろうけど)。その無茶によって、『ションベンライダー』という奇跡的な作品が生まれた。この作品は、傑作とかそういうものの範疇にはない、一体、何がどうなってこういうものが出てきてしまったのか分からない、というような、相米の作品中でも例外的なものだ(勿論、溝口とか神代とか清順とか、そういう影響は至るところに見られるとしても、そういうことではないのだ)。『台風クラブ』とか『お引っ越し』とかだったら傑作と言っていいかもしれないけど、そういうこととはちょっと違う何かなのだ。実際、相米慎二は二度と『ションベンライダー』のような映画はつくろうとしなかったように思う。相米は基本的には、映像や音声が物語と最終的には調和することを目指していたように思うのだが(あるいは、映像を組織する根拠を、最終的には物語に置いていたように思うのだが)、『ションベンライダー』は、はじめからそれとは違う方向へ動いているように思う。おそらく、この「お話」のどこにも、信頼を置く点というか、核となり得る部分をみつけられなかったから、それとは別のことをせざるをえなかったのではないか。
あと、この時代の日本映画はまだ豊かだったのだなあと、画面を見てすごく思った。今、日本の映画作家でこんな贅沢な条件で画面をつくれる人は一人もいないのではないか(宮崎駿をのぞいて)。