2022/08/03

●『夜の女たち』(溝口健二)。これはすばらしかった。今まで観たミゾグチで一番すごいと思ったのは『残菊物語』だけど、これは、それに次ぐぐらいにすごかった。映画の空間というのは、こんなにも驚くべきものなのか、と。この映画のミゾグチは、巨匠というより、もっと自由で、機敏で、冴えた、何かだ。

(田中絹代が「脱獄(脱走)」する場面などは、ミゾグチ的というよりもヌーヴェルヴァーグ的な感触で、ゴダールをはじめとしてヌーヴェルヴァーグの作家たちがミゾグチから多大な刺激を受けるのもよく分かる。)

(田中絹代は、ふいに思い立って、というか、ふいに耐えがたくなって「脱獄」するのだが、この「ふいに」という感じがすごい。ほんとに「ふいに」で、この「ふいに」感のリアルさ。)

(相米慎二がいかに「無茶をした」といっても、それもすべて既にミゾグチのなかにあるじゃん、とか思ってしまう。相米をけなしたいわけではなく、相手が強すぎて「かなわねえ」という感じ。)

(ここで相米の名が出るのは、『夜の女たち』を観ながらちょこちょこ「相米っぽさ」を感じていたからで、逆から言えば、相米はけっこういいところまでミゾグチに迫っていた、ということでもあるのか。)

この映画の公開は1948年で、戦争が終わってから三年しかたっていない。今ではもう、「終戦直後の混乱期の娼婦たちの話」は、一つのジャンルのようなありふれた題材になってしまっているが、この時期には、まさに今起きているリアルな現代劇だったのだろう。

で、思うのが、戦後三年しかたっていなくて、貧しい女性たちが娼婦にでもならなければ生きていけなかったような時代に、もう既に、こんなに豪華なセットを組んだ映画(映画としてとても豊かな映画)がつくられていたのだなあ、ということだった。

これは批判とかではないのだが、描かれているもの(貧しい戦後の社会を生きる女性の困難)と、それを描いているもの(映画会社の資本によって成り立つ、豪華なセット、豊かな技術、巨匠である男性監督)との乖離がすごいなあとも思う。

題材としてはネオリアリズモ的と言えるが、映画のあり方としては大きな資本をもつ映画会社のつくる商業映画なのだ。それだからこそ(お金と、技術の蓄積があるからこそ)可能である傑作であり、そのことを簡単に批判したくはないが(そのような安直な批判を軽蔑するが)、しかし、そうであるということを意識しないわけにもいかない。