2022/04/15

●映画をYouTubeで観てしまうことには常に後ろめたさが伴うのだが、ずっと観たいと思っていても観る機会のなかった作品を観ることが出来るとなったら、誘惑には勝てずに観てしまう。

リヴェットの13時間ちかくもある大長編『OUT 1』の最初の三時間ちょっと(Episode 1とEpisode 2)をYouTubeで観ることが出来て、とりあえずEpisode 1(約90分)を観てみた。リヴェットはヌーヴェルヴァーグの作家たちのなかでも最も過激に「どうかしてる」作家なのだと改めて思った(自動翻訳の日本語字幕では登場人物たちが何を言っているのかほとんど分からなかったが)。ヒッピー的な(あるいは69年的な)自由を最も体現しているフランスの作家ではないか。とはいえ、最後まで観るとその「ヒッピー的な自由」が敗北する話らしいのだが。

(Episode 1は、90分まるごとイントロダクションという感じで、二つの劇団の異様なエクササイズが延々つづくなかで、ジュリエット・ベルトとジャン=ピエール・レオーがチラッ、チラッと差し挟まれる程度で、「まだ何もはじまってねえよ」感がすごく、13時間つづく映画のペースが示されるのと同時に、長大な予告編のようでもある。)

この作品がつくられた1971年前後には、ゴダールはジガ・ヴェルトフ集団時代で、トリュフォーは71年に『恋のエチュード』をつくっている。ロメールは70年に『クレールの膝』、72年に『愛の昼下がり』、シャブロルは69年に『肉屋』、72年に『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』、デュラスは、69年に『破壊しに、と彼女は言う』、72年に『ナタリー・グランジェ/女の館』を、ユスターシュは71年に『ナンバー・ゼロ』、73年に『ママと娼婦』をつくっている。

(Episode 1を観るとやはり最後まで通して観たくなってしまう。英語字幕つきのUK版ブルーレイの中古なら、七千円ちょっとで買えるのか…。)

リヴェットの作品の履歴を改めてみてみると、60年に『パリはわれらのもの』、66年に『修道女』、69年に『狂気の愛』、71年に『OUT 1』、74年に『セリーヌとジュリーは舟でゆく』、76年に『デュエル』と『ノロワ』、81年に『メリー・ゴー・ラウンド』と『北の橋』、84年に『地に墜ちた愛』、85年に『嵐が丘』、89年に『彼女たちの舞台』となっていて、60年代から80年代の、この三十年のぶっとばしっぷりはすごい(『OUT 1』のEpisode 2以降と、『ノロワ』『メリー・ゴー・ラウンド』は観ていないのだが)。91年の『美しき諍い女』以降は世界の巨匠という扱いになるが、それ以前は、三十年間一貫して妥協無く尖りつづけている。しかも、ゴダールみたいに分かりやすく尖っている(「尖っている」ということが誰でも分かる)のではなく、一見緩そうにも見える尖り方(「尖っている」ということすら分かりにくいという「尖り方」、ぼんやり観ていると若い女性俳優たちと緩く戯れているようにしか見えないかもしれないという「尖り方」)で、シネフィル以外の人はなかなか支持しづらい作風を堂々とつづけているのがすごい(勿論、シネフィルからの強い支持があったから可能だったのだと思うが)。少しは一般受けしてみたい、みたいな下心やブレがまったく感じられない。「分かりにくい」ことを三十年つづけるのは簡単なことではない。

これはシネフィル的な価値観に閉じている、ということではなく、一般受けや分かりやすさにまったく妥協していない、という意味だ(分かりやすく「難しい」姿をしているわけですらなく、難しいのか難しくないのか判断するのがまず難しい、あるいは何が「難しい」かを見つけるのが難しい、ことをやりつづけている)。

(実は『メリー・ゴー・ラウンド』もYouTubeで観ることができてしまうのだが…。)