●リヴェットの『パリはわれらのもの』がDVDソフト化されていて驚いた。そして、それを観て、リヴェットが最初から完璧にリヴェット以外の何ものでもないことに驚いた。ある意味、一生ずっとおんなじことをやっていたということでもあるが、しかしこの「同じ」さは、作家性というものとはちょっと違う気がする。オブセッションというのとも違うと思う。「方法」という感じに近い気もするけど、方法と言えるほど一般性があるわけではない。
作家性と言えるほど個に密着していないが、方法というには個の特性が絡み付きすぎている。「趣味」というのが、一番ぴったりくるかもしれない。しかし、なんと斬新な「趣味」なのか。
リヴェットの映画の多くが、秘密と陰謀に満ちているのだけど、通常の物語で秘密や陰謀が持つ機能をほぼ何ももたされていない(陰謀論神秘主義と結びつき、虚実は曖昧に…)。平板化され脱臼された秘密と陰謀があり、紋切り型のひたすらな反復がある。紋切り型を愛しながらも、紋切り型が紋切り型でしかないことを憎み、紋切り型から紋切り型の特徴を脱臼しようとする。深さと浅さの違い、近さと遠さの違いがなし崩しに崩れる。そういう趣味、あるいは性格。そして、そのような趣味にとても強く惹かれるのも、ぼく自身の趣味であり、性格であるのか。
●『パリはわれらのもの』は、1958年につくられた(公開は61年)。当たり前のことだが、リヴェットの第一作であるこの映画をリアルタイムで観た人はすべて、リヴェットの映画を初めて観たことになる。もしぼくが当時の人で、リヴェット以降の映画にかんする予備知識もなく、いきなりこの『パリはわれらのもの』を観たとしたら、これを受け止めることができただろうか。その印象は、斬新とか難解とかではなく、つまらないとか下らないとかでもなく、「微妙」というものだろう。リヴェットに対して最も好意的である友人であったとしても、「うーん、これ、何……」という反応しかできなかったかもしれない。対応に苦慮する。どう反応していいか分からない。気まずい。要するに、それが「新しい」ということだと思う。
一見して斬新に、新しく見えるものの「新しさ」は、その「新しさ」そのものが新しくない。未知の「新しさ」に出会った時、多くの人はそれに反応できない。そんな「新しさ」は今まで見たことがないから。現在の時点から振り返ってみるとすれば、ゴタールの『勝手にしやがれ』よりも、『パリはわれらのもの』の方がずっとヤバいもののように思われる。