●紋切り型は、何も考えていない、何も感じていない、少しも揺らいでいない、ときに自動的に出てくる。
●とはいえ通常、社会的な意味でのコミュニケーションは紋切り型を交換することで成り立つ。紋切り型の交換のなかにそれ以外のものを混じり込ませようとすると、流れは滞る。
●逆に言えば、流れの滞りにだけ意味が生じるとも言える。人は別に考えてしゃべるわけではなく、ただしゃべるためにしゃべる。あるいは、ただ言葉を交わすためだけにしゃべる。これはこれとしてとても重要で、おそらくそれが言葉の一義的な意義だ。でも、しゃべるためにだけしゃべる、その流れの調子が狂う時に、言葉が別の回路に触れる。「意味」はそこにしかない。
●どのみち人は、考えてしゃべるのではなくしゃべるためだけにしゃべるのだから、そこで語られる言葉の意味や内容は二義的なものでしかない。肩にやさしく触れるのか、ぎゅっと強い握手を交わすのか、胸ぐらをつかんで激しく揺するのか、あるいはそれらをどう組み合わせ、相手の態度にどう反応するのか。重要なのはそのような調子であり、調子の交換であろう。内容などどのみち紋切り型だ。
●人が考える、あるいは揺さぶられるということは、そのような表面にある意味の流れとは外れたところで起こる。それを促すのが流れの滞りだろう。だから、人が、何をどう考えて「その考え」に至ったのかという考えの過程は、意味の流れのなかだけでは追うことができない。自分が、何をどう考えてそうなったのかという過程も、意識によってでは追うことができない。
●まず滞りがあり、それが稲妻のように別の何かに触れるのか、それとも、話の流れが出会い頭に遠い何かと響きあい、それが流れを滞らせるのか。いやむしろ、遠い何か自身の振動が稲妻のように、われわれの紋切り型の流れを貫いて――つまり「向こう側」からやって来て――滞りを生むのか。
●滞りは、わたしの側にあるのでもなく、あなたの側にあるのでもなく、わたしとあなたの中間に生じる「流れ」のなかにある。あるいは「流れ」から来る。流れが、わたし自身にもあなた自身にも回収されないのであれば、その流れは、わたしやあなたの都合や努力や技量と関係なく、常に滞る可能性があり、おそらく、常に滞っている。
●対話でも弁証法でもない二人称。