●『ぼくらのへんたい』(ふみふみこ)1〜4巻まで読んだ。
欲望は人を一人にする。というか、自分の欲望と直面することは、それが「自分だけのもの」であることを思い知ることだ。(1)欲望は外在的である。それは外からやってきて、わたしを強い力で引きずりまわす。(2)しかし、そうであるにもかかわらず、欲望とはわたしの内側にあり、わたしにだけ作用し、それを知っているのはわたしだけであり、その秘密を一人で持ち、持ち堪えなければならない。(3)そして、そうであるにもかかわらず、欲望は自己完結できずに、他者へと向かう。故に、欲望によって「わたし」は、強引に(内に秘密を秘めつつ)他者と関係することを促され、その結果として一人であることを強く思い知らされる。
子供は、中学生くらいになると、何の準備も覚悟もないままで、このような欲望の力が吹き荒れる場にさらされる。やり方もよく知らないうちに欲望に力に促されて不用意に他者とかかわり、それによって人をひどく傷つけたり、逆に傷つけられたりし、どちらにしても欲望は成就せずに空回りし、ただ、自分が一人であることと、罪悪感や挫折感を何度も繰り返し噛み締めることになる。おそらくこのような時期になってはじめて人は、欲望の力によって、「わたし」は「わたし以外」から切り離された存在であること、「わたし以外はわたしじゃない」ということを、本当の意味で思い知る。
そこではじめて、たまたま家が近所だったから、親同士が仲良かったから、同じクラスだったから、という理由で「自然に友達になる」ということが困難になり、もっと別の関係を求めるようになるだろう。
基本的に、この過程は誰でもが通る道であるはずだ。ただ、人間には文化の蓄積があり、性的なマジョリティに対しては、既に社会的に準備された「欲望の紋切り型」のいくつかのパターンがあり、それらのパターンが織り込まれた共同性が用意されている。既に準備された紋切り型のパターンのどれかに、上手いこと自分の居場所をみつけてそこに巻き取られることが出来れば、欲望が人に強いる「一人であることへの直面」を、なんとなくやり過ごすように誤魔化すことが出来るだろう(とはいえそれでも、完全に避けることはできないだろう)。
だけど、あらかじめ準備された欲望の紋切り型のパターンのなかにでは、どうしても自分の居場所が見つけられない人はかならず存在する。人間の文化はそれなりに多様であるから、そのような人にも(少なくてもある程度は)フィットする「欲望の型」が世界中探せばどこかには既に準備はされているだろう。しかし、例えば「田舎の中学生」にアクセス可能な文化の幅は限られている(あるいは、マイルドヤンキーのような生活を強いられれば一生狭い幅のままかもしれない)。だからそのような人は、他人よりもずっと長く、強く、直に、「欲望の孤立性」の感触のようなものと向き合い、持ち耐えることが強いられる。
特別に文化的に恵まれた環境で育ったような人でない限り、中学時代というのは極めて狭い選択肢しか存在しない貧しい世界で、身の丈に合わない服を着せられているような状態で生きている。しかし、それ以外の状況を知らないから、身の丈に合っていない服を着せられているという自覚がない。中学時代の「当たり前」はちっとも当たり前ではないし、中学時代の「異常」はちっとも異常ではない。それは視野狭窄のつくりだす硬直なのだが、しかしそれしか知らないのだから、なんか違う、なんかムカつく、という反応しかしようがない。
だからこそ、そのような場で、狭い文化の幅とは「ちょっと違う感触」をみせてくれる人や文化がいかに重要であるか。それはたんに「なんか違う」という感覚でしかなかったものに、具体的な形を与えるきっかけになってくれる。とはいえそれは、極めて狭い世界のなかで出会った「ちょっと異質なもの」であり、欲望の孤立性が完全に受け止められるわけではない。いやそもそも、欲望の孤立性が他者やコミュニティに完全に受け止められることなどあり得ないので、そこではじめて、(コミュニティに巻き取られるという形とは別の関係しとして)異質な者(孤立した欲望)たちが出会い、関係をはじめることが出来る。
主人公は三人とも「男の娘」であるが、そうである理由はそれぞれ異なる。「男の娘」というのはきわめて雑な括りであるのだが、まさにその「雑さ」において、三つの異質な個の関係が生まれ、関係が生まれることで「欲望の孤立性」が際立つ。関係のなかで孤立性が際立つような関係こそ、個と個の相互作用としての関係ではないか。