●お知らせ。明日、24日付の東京新聞の夕刊に、国立近代美術館でやっているジャクソン・ポロック展の展評が載る予定です。
●そもそも昨日書いた話は、ポロック展の「インデアンレッドの地の壁画」の保険評価額が200億円だという話をみた時に、なぜこんなに嫌な気持ちになるのかと考えたことから出てきた。
http://pollock100.com/about/
そもそもそんなことを何故知らせるのか。「モナリザ」の保険評価額がいくらとか、「ミロのヴィーナス」ならいくらとか(「ミロのヴィーナス」は貸し出さないだろうけど)、いちいち言わないじゃん、と。あるいは、シェイクスピアの評価額をドストエフスキーが上回った、とか言わないじゃん。フローベールの自筆原稿が何億で落札されたから、みなさんフローベールを読みましょう、とか言わないじゃん。保険評価額なんて保険屋の都合でしかないはずだし、評価額200億円の絵を借りてくるのにいくら保険料がかかるのか知らないけど、それもまた、借りてくる側の経済の問題でしかない。それで採算がとれるなら借りればいいし、取れそうもなければやめればいい。それはそっち側の都合の話でしょう、と。でも、なんでそれが「絵の価値」であるかのように宣伝に使われるのか。
経済には経済としての意味があり、それはシビアな問題ではあろう。しかし、美術館で絵を観る時に、それを借りてくるのに莫大な保険料がかかるという話は関係ないはず。その情報は、公的機関の予算の使い方の問題としては開示されなければならないだろうが、美術館で絵を観る人に向かって告げられるようなものではない。何でも金で測るなよ、と。
「金の話はするな」と言っているのではない。金の話は大事だし不可欠だ。だが、金の話と価値の話を一緒にするな、と。「この絵を観る(観せる)ためには○○円のお金が必要だ」という話を、「この絵を観ること(経験)には○○円相当の価値がある」という話であるかのように語るな、と。前者は経済の話であり不可避だが、それを後者と言い換えるのは、魂を金で売っているのと同じだ。
●とはいえ、価格と価値とを切り離すのはむつかしい。例えば、プロスポーツ選手が年俸額にこだわるのは、金が欲しいと言うより、その額が選手としての自分のリアルでガチな評価であると感じるからだろう。口では調子いいこと言っているけど、本音はその程度の評価かよ、みたいな。
ではなぜ、価格と価値とはそんなにも混同されるのか。それはおそらく、価値が「他者の欲望」へと翻訳され、表現されてしまうからではないか、というところから、昨日の話ははじまっていた。だからあくまで価値と欲望の話で、経済の話ではない。価値が「それを欲しているのに手に入れることができない人の数」として表現されてしまうと(つまりそれを手に入れることで他者の「欲望」に対して優位に立つことになる)、欲望が他者との関係(競争)の方からやってくることが避けられなくなり、世界が人間関係で埋め尽くされてしまう。わたしが欲するものとは、わたしが他者と関係(競争)するときに有利に使えそうな(希少価値をもつ)ものだ、という風になる。わたしが「より高い(稀な)美」をもつことで、他者の欲望(愛)に対して優位に立つことができる、とか、わたしが「より高い(稀な)成績」を期待できる選手であることによって、多くの球団に対して優位に立つことができる。とか。ここで、他者に対するわたしの優位こそが「わたしの価値」を表現するものになる。本当は、美や技術の価値はそこにはないのだが、そうなると、「わたしの価値」は他者との競争によってしか保証されなくなる。おそらく、昨日の日記で言いたかったことはそのようなことだ。
●でも、昨日の日記ではそこを不用意に経済の話と混同しているところがあったかもしれない。
●あ、でも、「わたしが欲するものとは、わたしが他者と関係するときに有利に使えそうなものだ」ということ自体は必ずしも問題ではないのか。この時に、「わたし」と「他者」とが鏡像的な関係にあって、二者の「関係」が「競争」に固定され、そこで「有利な(希少な)もの」も固定されてしまう時に、それは互いの「位置」の奪い合いとなって、世界が人間関係に閉じ込められるのか。ここで、「わたし」と「他者」とが半分だけの鏡像的で、半分はズレているとしたら、逆に、「欲するもの」の循環を通じて二者の間に魂の交感のようなことも可能になるのかも。