●昨日書いた、「人間が人間とが関係する世界」と「人間もその一部であるような世界」の違いということについて、もうちょっと書く。
●すごく素朴な話をする。これは経済の話というより欲望の話だ。例えば、その生産コストから、リンゴを一個一万円で売らないと元が取れないとする。りんごが魅力的な食べ物であれば、それを欲しがる人は多く、高価でも買う人はいるだろう。しかし、技術革新によってローコストでの大量生産が可能になるとする。100分の1の値段で売ることができるようになる。でも、りんごを食べることによって得られる歓びや栄養は変わらないとすれば、りんごの価値は少しも下がっていないはず。価格が100分の1になれば、今まで100人の人しか得ることのできなかった歓びや栄養が、その100倍の人にまで行き渡るかもしれず、歓びや栄養が100倍になるのであって、りんごの価値が100分の1になるわけではない。
ただ、人は価値を「他人の欲望」によって測る側面がある。りんごの価値を、「欲しいけど手に入れることの出来ない人の数」で測るとすれば、りんごの価値は大幅に下落したこととなる。この時経済は、りんごの生産、再生産のコストとそれを手に入れる必要性とのトレードオフという話から、「他人の欲望」の問題にすり替わる。価値が高いから手が届かない、ではなく、手が届かないから価値が高いという話になる。かっこいいからモテるが、モテるからかっこいいになり、美人だから高嶺の花が、高嶺の花だから美人という風に転倒する。みんなが欲望する→競争率が高くなる→価値が高くなる→素晴らしい、となってしまう。本来ならば、価値が高い→みんなが欲望する→競争率が上がってしまう→競争率を下るためにはどうしたらよいか、となるはずなのに。
多くの人がそれを必要とするものは「価値の高い」ものであろう。だからそれを得るための競争も激しくなって「価格」も上がる。しかし、生産力を向上させることが出来れば「価値」の高いものの「価格」が低くなり「すべての人」に平等に行き渡ることになって、競争はなくなるはず。生産力の向上こそが「明るい未来」に繋がると考えられていた時、人はそのような考えであったはずだ。しかしそんなことにはまったくならなかった。
●向上とは、自分自身に対して向上することだが、競争とは基本的に「他人を蹴落とす」ことだ。そもそも、他人を蹴落とさなければ生きてはいけないという現実を少しでも緩和するために、自分自身に対する向上として、生産力の向上が求められていたはずなのだ。僅かの肉しか手元になければ、同じ肉を欲しがる相手を殺してでもそれを食べなければならないが、たくさんの肉があれば、相手を殺す必要もなく、肉を分け与えることさえ出来る。それが生産力の向上であろう。それがいつのまにか、相手より多くの肉を得られなければ、相手に殺されてしまう(自分自身の「位置」を失ってしまう)、というような感じの競争=闘争になってしまう。
世界はあまりに複雑であり、どうしてそんなことになってしまうのかを簡単に説明することは出来ないのだろう。しかし根本には、「価値」を、「それを欲しているけど手に入れることが出来ない人の数(他人の欲望)」によって測ろうとすることが、つまり、「かっこいいからモテる」ということが、いつのまにか、「モテるからかっこいい(そこにあるのは希少価値の物を所有する競争の欲望だろう)」へと転倒してしまうというところに、最初の躓きがあるのではないだろうか。多くの人が望むものを高い競争率を乗り越えてゲットするところに歓びがある。そう考えている限り「競争」からは逃れられない。しかし「競争」は「向上」ではなく「他人を蹴落とすこと」だ。
●ここで、環境や自然ということが浮上する。つまり、人が、他人に対して存在し、対他的に世界と向き合うとき、そこにどうしても想像的な他者との競争関係(闘争本能?)が、世界との関係=欲望のはじまりとして作動してしまう(ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」、スピノザ的な「イマギナチオとの闘争」、ヘーゲル的な「主人と奴隷の闘争」、ラカン的な「想像的な他者との闘争」等々)。人間の「欲望」の形として、それは不可避であるようにも感じられる。しかし、そうではなく、環境に対して存在し、対自然的に世界と向き合うことではじめて、「他人」と、「競争」とは別の関係が可能になるのではないだろうか。人と人とが、ガチンコで向き合って互いを見つめ合うのではなく、二人で並んで、同じ対象(環境)を見る、というような。欲望(競争)よりも環境を優先することによって、向上が可能な環境を得ることができるのではないだろうか。
●ある深刻な問題があり、それを解決しようと努力する100のチームがあったとする。そして、ある一つのチームが見事な解決策を編み出した。勿論、そのときにまず第一に賞賛されるべきなのは解決策を編み出したチームであるが、その解決策は、それ以外の99のチームの努力があったからこそ生まれたという側面もある。100の異なる試みのうち、たまたま一つが成果をあげたと考えることも出来る。重要なのは問題が解決されること、その解決によって世界がどのようにかわるのかということだ。しかしそこで、他の99のチームを出し抜いて、俺たちのチームこそが成功をおさめたのだと考える限り、その解決策は「自分たちのものだ」と考えている限り、それは「世界」ではなく「他者とのライバル関係」しか見ていないということで、それでは世界は良くならないと思う。
●競争こそが向上を生むという考えは、本当に間違っていると思う。そもそも自由競争の本来の意味は、需要と供給の適切な均衡点が動的に自ずと見出される点にあって、競争が向上を生むという話ではないはず。
優秀な人は、競争などなくても自分で勝手に向上してゆくし、ダメな人は、競争があると他人を蹴落としたり出し抜いたりすることしか考えなくなる。