2020-11-03

●たとえ負けたとしても負けを決して認めず、相手が不正をしたせいだと言い張れば、少なくとも味方に対する面目は保たれる。たとえ何の根拠もないデタラメであっても、強い口調、強い言葉で語り、間違いを指摘されても揺らぐことなく、飽くことなく堂々と言い続けていれば、それを信じてしまう人が一定数いる。あるいは、信じるまではいかないとしても、でまかせを発し続けることで、何が事実なのかわからない混乱状態を作り出し、どうせほんとうのところなど分からないのだし、それぞれの人が自分の信じたいものを勝手に信じているに過ぎないという冷笑的な態度へと人を誘う。これらのことは現実の軽視であり、もっと正確に言えば「現実(リアル)があるという信頼」の破壊だろう。

(「現実があるという信頼」には実はしっかりとした根拠がないので---「現実」は根拠のない「信」によって支えられているので---それは割と容易に失われる。「現実があるという信頼」によって可能になる最大のものは「間違えることができる」ということだと思う。すべては等しく「虚」であるとしたら、何をやっても、何を言っても、間違えることができない。間違えることが出来なければ、軌道修正することもできない。)

このような状態で可能になる、ある特殊な「現実主義」というものが考えられる。ここで言う「現実主義」とは、「現実があるという信頼」を破壊することで、「現実は変えられる(間違いを正すことが出来る)」という希望を消失させ、ただ、自分の都合のいいように他人を誘導し、従わせることを通じて自分が得ることのできる利益の有無だけを「現実(2)」と言い張るような主張のことだ。これはいわば汎政治主義とも言えるもので、ここでは(あらゆるものが等しく「虚」であるなかで)政治的な権力の増大を賭けた権力闘争のみが「現実(2)」ということになる。「現実主義」においては、権力の増大が正しさであり、縮小が間違いとなるだろう。

(故に、上のような意味の「現実主義者」になれば、「現実があるという信頼」を失っても、「現実(2)は変えられる(間違いを正すことが出来る)」という希望---その希望は、権力の増大という「利己的な欲望」に変換されているのだが---をもつことができる。)

とはいえ、このようなやり方で実際に自己の権力の増大を実現できるのは、ごく限られた一部の人のみだろう。ほとんどの現実主義者は、権力闘争に負けつづけることで、勝者の養分となる。だが、そうであったとしても、「現実」に追い詰められ、「現実」に痛い目を見させられつづけた人にとって、「現実があるという信頼」を破壊することを通じて権力の増大を実現させている人を見ること、そのような人へ共感(同一化)することは、強い快楽を伴うであろうことは容易に想像される。というか、勝者になれない場合は、勝者への同一化を通じた快楽以外に、欲望を満足させる方法がない(破壊によって権力の増大を得る者への同一化により、破壊そのものが快楽となる)。一方、「現実があるという信頼」を擁護する立場にあってもなお勝者であり得る人(既得権に守られたエリート)に対しては、強い憎悪をもつだろう。故に、前者が後者を踏みにじるような言動に対して、拍手喝采を送ることになるだろう。それはとても気持ちのよいことだろう(だから止めるのは難しい)。

このような「現実主義」的な「現実(2)」が問題なのは、ここで権力闘争をするアクターとして想定されているのが「人間」に限られているということだろう。人間さえ操作できれば、現実(2)を操作できると考えられているからだ。しかし、(もし本当に現実があるとしたら)「現実」を構成しているアクターは人間だけではないはずなので、このような人物たちによって構成される世界では、人間以外のアクターから負わされるツケがひたすら増大し、人々は常にそれを支払わされつづけることになるだろう。そして、(これも、もし本当に現実があるとしたら、だが)「現実」からのツケがごまかしようのないくらいに蓄積することで、「現実主義」はいつかは破綻する、はず。

しかし、「現実主義」の破綻は、人類の破綻と同時に起るのかもしれない。