●マルクス・ガブリエルの自然主義への否定は大胆なもので、たとえば彼は、物理法則を「神話」だと言っている。『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル・中島隆博)より。
《物理学者は、過去一四〇億年、同じ自然法則が宇宙を支配してきたと仮定しています。でもそれは単なる仮説にすぎません。この仮説がどこから導かれるのか、誰も教えてくれません。それは結局、構築的な神話のレベルにあるものにすぎないのです。
これはわたしの学生であったトム・クレルのアイデアですが、神話には、支配的な神話と構築的な神話という区別を設けることができます。
支配的な神話とは、わたしたちが「神話」として知っているありふれた物語です。神や英雄の物語、現代ならばスパイダーマンは、お決まりの支配的神話ですね。
それに対して構築的な神話は、物事のあり方やある集団にとっての確実性がどうなっているのかを明らかにするものです。宇宙はあまねく自然法則に支配されているというのも、その意味で構築的な神話です。それは物理学者にとっては確実性をもっていますが、誰にとっても確実なわけではありません。》
●勿論、「自然主義の否定」とは、自然科学を否定しているのではなく、自然科学がこの世界を解明する唯一の絶対的な方法だということの否定で、そうではなく、自然科学はあくまで「ある限定」のなかで意味をもつものだということを言っている(「世界は存在しない」ということは、世界全体をカバーする統一的な原理は存在しないということだから、自然科学もまた、そういうものではない、と)。
ここで「構築的な神話」という概念が面白い。マルクス・ガブリエルの存在論によると、現実=実在は「無底」であって、根拠がない。《この事実が存在するという事実---その事実性---にそれ以上の根拠はないのです》。しかし、ある事実が存在する(ある「図」がたちあがる)という時、その効果として、ある背景(地・底・文脈)もまた、それと同時に、自ずと想定されることになる。実在(図)と文脈(地)は不可分である。どんな実在(図)も、ある特定の意味の場(地)のなかでたちあがると、マルクス・ガブリエルも言っている。しかし、実在が無底で根拠がないとすれば、意味の場は実在の背景ではあっても根拠ではなく、図と同時に発生する、図と同等のものだと考えられる。文脈が先にあって、そこに実在(意味)が生じるのではなく、文脈と実在とは同時に生じ、そのどちらにも根拠はない、ということになるはず。
とはいえ、図があり、その背景として地があるという場合、我々にはどうしても、図の根拠として地があるように感じられ、地こそが世界の生地であるかのように感じられる。そして、このような感じ方こそが、「現実は存在する」という信頼を人に抱かせるメカニズムの深いところで作用しているように思われる。だから、マルクス・ガブリエルの言う「構築的な神話」とは、「現実が実在するという信頼(現実への「信」)」を成り立たせるものとして作用するものだ、ということになるだろう。我々が「現実を信じる」ために必要なものとして、構築的な神話がある、ということなのだろう。そしてこれが「構築的」なものである以上、作り替えることもできるはず、と。
●マルクス・ガブリエルは、自分の考え方に近い自然科学者として、統合情報理論のトノーニを挙げている。トノーニは、外からの計測と計算によって定量的に意識の有無を判定できると考える人で、一見すごく自然科学主義みたいにみえるのでちょっと意外で面白いのだけど。
《わたしの考え方に最も近い自然科学者は、ウィスコンシン大学マディソン校の神経学者、ジュリオ・トノーニです。彼は立派な学者です。アレン脳科学研究所の所長と主任学者を務めているドイツ人の神経科学者クリストフ・コッホと一緒に、「意識の統合情報理論」という新しい意識モデルを開発しました。これは本当に卓越した仕事だと言わなければなりません。
トノーニとわたしは、チリ政府とともに南極近くまで一緒に旅をしながら、多くの議論をしました。トノーニはわたしの議論すべてを完全に理解しています。わたしの経験では、最も優秀な物理学者は、哲学に関心がなく反対も賛成もしませんが、話せばすぐ理解してくれます。》
トノーニについての過去の日記。