2020-11-01

マルクス・ガブリエルにおいては、過激な存在論と、良識的(常識的)な倫理的提言とが同居しているようにみえる。だから、一方の倫理的提言だけをみると、普通に良識的なヨーロッパ的知識人で、特に目新しいことを言ってはいないようにも感じられる。しかし、その普通に良識的にみえる倫理的提言も、過激な存在論から導かれたものであるはずで、そこに新しさが見出せるのではないか(たとえば、カント的な普遍や道徳は割と強く否定される)。以下、『全体主義の克服』よりメモ的引用。

●まず、中島隆博の発言から。相対主義でもなく、普遍主義でもないこと。重要。

《世界哲学という概念を考えるとき、わたしたちはふたつの考え方と縁を切りたいと思っています。ひとつは「世界の中の諸哲学」という考え方です。世界の諸地域の哲学を集めて、その違いを示そうとするもので、これに関してはすでにいくつかの哲学的な著作がでています。

ところが、こうした理解はしばしば、批判なしに地域的な価値の保存に陥ります。必要なことは、世界哲学において、地域哲学が相互に変容することです。

もうひとつは、長く続いている哲学のクリシェ(常套句)で、範例的な「世界的な哲学」「普遍的な哲学」があるという考えです。これは哲学にヒエラルキーを持ち込むもので、ひとつの中心的な真の世界哲学があり、そこから枝分かれして地域的な哲学があるというものです。こちらの理解も問題があります。》

●「礼」、倫理的消費、弱い規範。まず中島隆博の発言二つと、次いでマルクス・ガブリエルの発言二つ、最後に中島発言。

《(…)わたしは中国哲学のなかで、「食べる」という概念にずっと関心をもっています。儒教には「礼」という概念があります。礼は、食べることや死といったわたしたちの生における暴力の次元に関わっています。わたしたちは生きるために、動物や植物を殺して食べるのですから。》

《(…)そのために、礼は食べるといった消費の形態に関わっています。こうした消費において、どうすれば規範的なものを開くことができるのでしょうか。礼はこの問いへのひとつの答えであって、消費のなかに弱い倫理を発明しようとしています。わたしは礼が倫理的消費のひとつの出発点になりうるように思います。》

《興味深い思想ですよね。現代の倫理学では、道徳的価値と単なるエチケットの間に大きなギャップがあると考えがちですが、それが誤りの元です。(…)

人々は「子どもを虐待してはいけない」は普遍的な道徳であるのに対し、フォークやナイフで食べるか、箸で食べるかは、その人しだいだと言うでしょう。しかし、それは人しだいではありません。フォークやナイフでは、本当に美味しい和食は食べられません。ところがアメリカ人は、自分たちにはそれができると思っています。だから和食レストランで「フォークとナイフをもらえますか」と頼むわけです。これは大きな間違いです。

この例が示すように、弱い規範はアブリオリにあるものではありません。魚の切り身の形に応じて、それに適したフォークやナイフ、もしくは箸の使い方があります。その意味では、礼は偶然的なもので、状況によって、礼のあり方はまったく異なってくるはずです。

しかし、いったんそのゲームに参加するなら、特定の振る舞いが正しいものとなります。規範性は。明確に定義された一連のゲームのなかで、正しい動きと正しくない動きを区別するからです。つまり弱い規範とは、与えられたゲームに固有の規範性を意味します。》

《(…)多くのドイツ人は、魚を丸ごと食べることができません。切り身しか食べられないのです。おそらくドイツ人に魚を丸ごと一匹与えると、ショックを受け、食べることはできないでしょう。彼らはそれが動物であることに気づいてしまうからです。

しかしその一方で、地域によっては、食材や肉そのままの姿を目に見えるように料理するところもあります。とくに中国がそうです。本物の中華料理を目にすると、西洋人たちはショックを受け、食べることができません。西洋人は、動物を食べられる部分と食べられない部分とに分け、食べられる部分にだけ向かいます。それは、動物を食べていると感じずにすむからです。それに対して、中国人は、動物を殺しているということを知って食べているのです。》

《「人の資本主義」がどういうものなのか、わたしとしてはまだイメージの段階ですが、礼はそのヒントになるものです。つまり、礼は、他人とのつながりのなかでともに生き、ともに変容しつつ、共通の体験を豊かにするものです。さきほどガブリエルさんが言ってくれたように、礼はアプリオリに決まったものではなく、わたしたちが歴史的に共同で作り上げ、変化させていくものです。そのため、それは定められた計算可能なものではありません。

礼としての消費は、人々が出会いながら、そこで起きる計算を超えた偶然的な出来事を歓待するものでなければなりません。》

●複合(化)、中立性、普遍化というプロセス。中島×1、ガブリエル×4。

空海にとって、もっとも根本的な問題のひとつは複数の言語でした。サンスクリット語と中国語と日本語の関係をどう考えればよいのか。(…)現代のわたしたちは、経典の翻訳を洗練していけば、経典に表現された大文字の意味に到達できると思っています。(…)

しかし空海はそうした考え方を拒否しました。空海からすれば、事は翻訳の問題ではなかったからです。サンスクリット語は神聖な言語でしたし、安定した書記システムとしての日本語はまだありませんでした。そうすると、空海の問いはこうなります。どうすれば、中国語や日本語といった言語をこの神聖な言語に重ねることができるか。この問題系のもとで、意味と言語について考えるために、複合語が登場します。複合語を通じて異なる言語をひとつの組み上げようと着想したのです。》

《わたしたちはさまざまな伝統の間での対話を通じて、複合的なものに到達します。人々はどのような形であれ、非対称性を事前に想定することなく、対話的な状況に入らなければなりません。

その場合、オリエンタリズムは排除しなければいけませんし、逆に、アジアの伝統が優れていると思って対話に入るべきではありません。どちらが優れているか、劣っているかということではないからです。どれも思考なのです。思考、つまり考えることの本質は権力関係に立つことではありません。グローバルな世界で哲学が果たす役割は、権力関係を中立化することです。それは、倫理は中立的なものに向かうと考えることです。

倫理とは、政治的な分布において左派を守ったり、右派を擁護したりするものではありません。そうした擁護は、むしろ倫理の対極にあるもので、政治であり、闘いです。中立性という概念は、中島さんの言う複合語という点からも説明できますし、ガダマーが「地平の融合」と呼んだ形式として考えることもできます。》

《(…)普遍化することを複数化できるかもしれませんね。(…)

普遍が「動き方」すなわち「道」とつながっているならば、つまり、もし普遍性がきっちり定義されたゴールではなく、「動き方」であるとすれば、当然、多様な「動き方」があることになります。

あらゆるスタイルのダンスに共通していることは、もちろん踊ることです。(…)しかし、「これが本当のダンスだ」と言えるような原ダンスがあるというわけではないのです。ダンスにはさまざまな踊る動きがあり、そこに何らかの共通点がありますが、それを見つける唯一の方法は、一緒に踊ることなのです。

ですから、ふたつの異なるスタイルのダンスを一緒に踊れば、そこに複合が生まれます。その複合がどのようなものになるかは、一緒に踊ってみるまでわかりません。わたしたちは複合の結果を事前に予想することはできないのです。》

《しかし、勘違いしないでほしいのですが、わたしはハーバーマス派ではありません。ハーバーマスはこう考えています。わたしたちがお互いに議論をすれば、理由を与えたり訪ねたりするゲームを通じて、普遍的に受け入れられる結果が得られるのだと。彼は、そういったゲームが普遍的なゲームでないことを理解していません。論理的な体系のなかで理由を与えるだけでは不十分なのです。

というのも、発言には背景や文脈があり、それは生きているものだからです。たとえばドイツと日本は、ふたつの異なる社会システムで、多くの文化的な要素から成り立っていますね。実に複雑なコミュニケーションのモードがあるのです。》

《伝達可能性という理念は、ハーバーマスが大学でゼミを運用するモデルに基づいて、それを過度に一般化したものにすぎないのではないかと思うことがあります。当然ですが、ゼミのような状況では、誰かがルールを作らなければなりませんし、誰かが上司なのです。そこには教授がいて、そして学生がいるのです。》

●非政治的な中立化のプラットフォーム。ガブリエル発言。

《(…)今準備している『虚構』という本の第三部で、社会的存在論を展開しているのですが、そこでは、社会をつなぎ合わせる接着剤は意見の相違であると論じました。これは、ハーバーマスの合意モデルとは正反対のものです。

具体的にはこういうことです。人間はそれぞれ、事物を異なって見る為に、常に異なる意見を表明しています。これは、それぞれの人の空間的な位置や個性によるものです。誰もが異なる心の歴史をもっています。あらゆる心の歴史をひとつの統合するようなア・プリオリなルールブックなどありません。

わたしが自分の人生のなかで培ってきた思考と、あなたがあなたの人生のなかで築いてきた思考、つまりわたしたちの心の歴史が、今ここで重なり合っています。それはわたしたちが思考を共有しているからです。しかし、それぞれ別々の思考をしている以上、常に衝突する可能性はあります。お互いにそれぞれの考えがあり、それが知らないうちに対立することだってあるからですね。

わたしたちの対話が暴力的でないのは、こうした衝突の可能性を中立化しているからです。それは、対話を前に進めるために、わたしたちを結びつける話題に焦点を当てることによって中立化しているのです。意見が衝突するような話題が生じた場合でも、対話を続けることができれば、わたしたちは対立を首尾よく収めることができるでしょう。

(…)そのためのルールブックはありません。ハーバーマスなら、理性というルールブックがあると考えるでしょうけどね。》

《(…)わたしが考える普遍性とは、中立性のプラットフォームを作ることです。中島さんの用語を使うならば、普遍化するプロセスとしてのプラットフォーム、ということになりますね。

大学、教育、出版といったこれまでの制度には、さまざまな形の非対称性があります。だからこそ、新しい制度を早急に創設する必要があります。それは、グローバルな世界秩序における哲学の使命、すなわち普遍的な平和という使命なのです。そうすれば、哲学が世界哲学になりますね。》

《その意味で、大学は中立化という対抗的な力を備えるべきだと思います。これは左派的な従来の哲学者モデルとは異なります。哲学は反対勢力の立場を占めるべきではありません。というのも、それは政治家にとって与しやすい立場だからです。政治家は敵との戦い方を学者よりもよく知っているのです。》

《それに対して、わたしたちが得意とするのは中立化であり、考えることです。政治家は考えることが得意ではありません。しかし、彼らこそ考えることが必要なのです。今のわたしの戦略は、考えなければならない状況に政治家を連れ出し、中立化することなんです。》