2021-08-03

●昨日の日記でリンクを貼った三浦俊彦の講義をとても面白く食い入るように観たのだが、同時に、一時、三浦俊彦の本を熱心に読んだり、分析哲学系のフィクション論の本を何冊か読んだりしながらも、そこで追求されている「フィクション論」のなかにあるフィクション(虚構世界)と、自分が考えたい「フィクション」とが重ならなくて、ここで展開され追求されている思考と、自分が考えたいと思っていることとは食い違っているのだと気づき、それらから離れたという経緯を改めて思い出させるものでもあった。

(フィクションとシミュレーションとが異なるものであるという二項対立は深く納得するが、この二項対立図式においてフィクションが負わされている役割りの捉え方が、どうしても納得できない。三浦図式ではフィクションを外側からしかみていないように思う。)

(とはいえ、可能世界を倫理について考える根拠として用いるということには、驚かされ、強く惹かれるものがあった。例えば、最近のデレビドラマ、『MIU404』や『大豆田とわ子と三人の元夫』を、可能世界を通じて倫理を問うように思考を促すドラマだと考えることができるのではないかと思った。ということで、『可能世界の哲学』の2017年改訂版を買い直したのだった。)

そして、ぼくにとっての関心であるフィクションは、次のような意味でのフィクションなのだということを改めて思った。以下は、『身体(ことば)と言葉(からだ)』(山縣太一+大谷能生)から引用しつつ書いた日の日記(2019-05-30)から。括弧内は本からの引用。

《(…)「演劇」は繰り返されるものです。「繰り返される」という時点でフィクションです。ぼくたちは「何かを繰り返すことができる」というフィクションを、可能な限り魅力的なかたちで上演したい。そのために選ばれている素材として、何度読んでも変わらない書き言葉としての戯曲と、それぞれに個性的な情報を抱えた、生きて死ぬ一回限りの身体をもった俳優が、舞台に存在しています。》

ここでは演劇における「書き言葉(戯曲)」と「身体」の関係が書かれているのだが、それを少し脇に置いて考えると、わたしたちは、それぞれに個別の「生きて死ぬ一回限りの身体」をもち、「二度と戻らない今」を生きているのだが、しかし同時に、何かを繰り返すことができるし、他人を真似する(行為や言葉を交換する)こともできる。つまり、この身ひとつでフィクション(反復と交換)をたちあげることができる。そして、何かを繰り返したり、真似したり(交換したり)するというフィクション(虚構)を通じてはじめて、取り替えのきかない固有性(現実の一回性)を得ることができる、ということではないだろうか。

意識的に舞台に立ち、意識的に「異常事態」に直面しようとする、いわゆる「俳優」でなくても、ふつうに人と会話するということのなかに、人前にたち、何かを反復させ、何かの真似をするという行為が、つまりフィクションのたちあげが含まれていると考えれば、ふつうに人と話すことが既に演劇であることになる。というか、「演劇」が可能であるからこそ、私たちは他人とふつうに話すこと(現実的な、一回限りの生における会話)ができる、ということではないか。

 https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/05/30/000000

さらに、2019年6月10日の日記(同じく『身体(ことば)と言葉(からだ)』を引用しつつ書いた)。

本来一回限りであるはずの出来事を、フィクションとして反復させることが可能であり、わたしたちは、そのための(もっとも基本的な)媒体として身体と言語とをもっている、ということになる。その意味で、演劇や音楽は、もっとも根源的な芸術なのではないか。もっともミニマムな形で演劇が可能であるからこそ、あらゆる芸術(反復と交換)が可能なのだ、と。

ただここで、「身体と言葉」という問題設定よりも、「身体と記号」という方がいいのではないかとぼくは思った。ここで「記号」とはパース的な記号だ。「身体と記号」という時、身体はまず解釈項として記号過程の内部にある。そして、身体は、記号過程のなかで、それ自身が対象でもあり得、記号でもあり得る。

身体と言語というと二項対立的だが、記号過程という三項関係のなかで、身体はその都度くるくると役割を取り替えていく。というか、複数折り重なる記号過程のなかで、身体は常に、同時に解釈項でもあり、対象でもあり、記号でもある。

(身体と言語という二項で考えるより、同時に、解釈項であり対象であり記号であるものとしての身体と、それが位置づけられる記号過程のありよう---その多層性---を考える方がよいのではないか。)

(「身体と記号」という構えで考えることが可能ならは、身体それ自身が既に、同時に解釈項であり記号であり対象でもあるのだから、言語獲得以前にも演劇はあり得た---というか共有可能なフィクションはあり得た---ということになる。)

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/06/10/000000

●フィクションは表象ではなく、(行為や出来事が現実の内側に畳み込まれることでフレームが発生し、再帰構造が生まれるような)行為や出来事であろう。俳優は「演じること」によってフレームを創り出し(フレームのなかで演じるのではなく)、現実のなかに脱現実的な入れ子構造を発生させる。それは、現実のなかで起る脱現実的(準現実)な行為や出来事であると考えられる。フィクションは、現実から脱落する(階層を下げる/上げる)ことで、現実上の諸関係を組み直す媒介となる(こともあるが、それが目的ということでもない)。そういう意味での「フィクション(広義の芸術)」について考えるための導きとなってくれると思われる理論的な枠組みが、パースの記号論であり、グレアム・ハーマンやエリー・デューリングの芸術論であり、現在の人類学であり、そしてラカン精神分析であるように、ぼくには(いまのところ)思われる。

(あるいは、矛盾するようでもあるが、チョムスキーの普遍文法だったり…。)