2019-05-30

●余裕がないので、トイレのなかではじめの方をちらっと読んだだけなのだが、『身体(ことば)と言葉(からだ)(山縣太一+大谷能生)におもしろいことが書いてあったので、メモしておく。

《オフィスマウンテンでは、たとえば、ワークショップやはじめての稽古の時などに、俳優の一人一人に、今朝起きてから稽古場に来るまでの自分の行動を、みんなの前に立って話してもらう、といったことをおこないます。》

《覚えた脚本を発話する稽古の前に、まずは自分の声で、自分の言葉で、今日の自分の出来事を話してもらう。俳優は前に立って、何時にどのように起きたのか、ご飯は何を食べたのか(…)というようなことを話して、みんなに伝えます。ひとしきり話が終わると着席して、次の人の番になるのですが、次の人はまず、自分のことを話す前に、前の人が話したことを、その時の身振り手振りや言い回しも含めて、思い出せる限り正確に再現してもらいます。》

《真似して話す作業は人によって得手不得手があって、いま見て聞いた内容なのにまったく再現できない、という人もいます。そもそも、特に意味のある話ではないので、もう一回同じことを同じように話すのは本人でも難しい。》

《みんなでその再現を見ながら、自分が覚えている動きを指摘したり、抜けている話を追加したりして、何度か繰り返して確認します。それが終わったら、今度はその次の人が自分の今日の話をして…以下、全員がこれを繰り返します。》

《話しながら無自覚におこなってしまう身体の表現は、ひとりひとりまったく異なっている。ぼくたちは他人が自分の真似をしている姿を通して、むしろ逆に、「ひとつとして同じ身体はない」ということを目の当たりにするのです。》

《このような俳優の固有性は、「人前で話す」という「異常事態」にあって際だちます。》

●ここではおそらく二つのことがなされている。一つは、自分の無自覚な喋りや行為を「人が真似したものを見る」ことで自分の動きを意識するということ。もう一つは、他人の無自覚な喋りや動きを(意味ではなく形を)「正確に真似する」ということ。それは、自分の身体の動きが、他人の身体によって再現されたものを見ることと、他人の身体の動きを見て、それを自分の身体を用いて再現すること、だろう。

この本では、それらを通じて、俳優が自分の身体の固有性を発見するということが書かれているのだが、これはどちらも「交換」と「反復」に関わる行為であり、それ自体が虚構的なものだ。他人による反復、他人の反復という虚構性が、個々の俳優を(取り替えのきかない)固有性へと導く、ということになる。

●そして、もう少し後には次のように書かれている。

(…)「演劇」は繰り返されるものです。「繰り返される」という時点でフィクションです。ぼくたちは「何かを繰り返すことができる」というフィクションを、可能な限り魅力的なかたちで上演したい。そのために選ばれている素材として、何度読んでも変わらない書き言葉としての戯曲と、それぞれに個性的な情報を抱えた、生きて死ぬ一回限りの身体をもった俳優が、舞台に存在しています。》

ここでは演劇における「書き言葉(戯曲)」と「身体」の関係が書かれているのだが、それを少し脇に置いて考えると、わたしたちは、それぞれに個別の「生きて死ぬ一回限りの身体」をもち、「二度と戻らない今」を生きているのだが、しかし同時に、何かを繰り返すことができるし、他人を真似する(行為や言葉を交換する)こともできる。つまり、この身ひとつでフィクション(反復と交換)をたちあげることができる。そして、何かを繰り返したり、真似したり(交換したり)するというフィクション(虚構)を通じてはじめて、取り替えのきかない固有性(現実の一回性)を得ることができる、ということではないだろうか。

意識的に舞台に立ち、意識的に「異常事態」に直面しようとする、いわゆる「俳優」でなくても、ふつうに人と会話するということのなかに、人前にたち、何かを反復させ、何かの真似をするという行為が、つまりフィクションのたちあげが含まれていると考えれば、ふつうに人と話すことが既に演劇であることになる。というか、「演劇」が可能であるからこそ、私たちは他人とふつうに話すこと(現実的な、一回限りの生における会話)ができる、ということではないか。

●最初に引用したこと、つまり、自分の身体の動きが他人の身体によって再現されたものを見ることと、他人の身体の動きを見てそれを自分の身体を用いて再現すること、それらを通して自分の身体の固有性の場を確保することは、それとして意識的になされなくても、私たちが常に行っている(それを通じてこそ「現実の一回性」が確保される)普遍的な行いなのではないだろうか。