●以下は『幽霊の真理』における荒川修作の発言から引用。この発言がなされたのは94年。
《くわしくお話しましょう。私たちの身代わりになってくれるような団地、集合住宅のブループリントができ上がったところです。そこに共同で住む人びとの知覚や感覚を、毎日、毎月、少しずつ変えてゆくように考えられ、できています。いつも私たちのユニバースのインターヴィニアントとして動き、生活を始めた人びとの動きや力によって、発生する出来事や現象によって、新しい遍在の場(場所)や環境が生まれ、人工的につくられた大地や台地は、複数の地平を四方に出現させ、それとともに大小の歩道は、一つひとつまったく違った方向性をつくり出す……もちろん車道もですね。団地全体のプランは個々の建物のインテリアにもミニチュアとして反映し、それらによって、毎日、新しい〈懐かしさ〉をつくり出すようにできてる。
その〈完全な懐かしさ〉が生成する現象がキャスティングされた世界のなかで、生活を始めてもらうのです。その時、人びとには予想もしていなかった感情が日夜、芽生えると思います。そして団地の環境それ自体が、あたかも私たちの家族のようになっているのに気づくでしょうね……。そして、その振動する現象とともに、団地やそのインスタントにでき上がった歴史的環境がいつの日か、あなたの身代わりになってくれるような場所です……。いかがですか、こんなところが日本列島のどこかにできませんかね……。》
このような事を、今日、まじめに考えるとするなら、どうすればいいのだろうか。このようなことを、まともに実現しようとするのならば、大きな権力が必要だろう。莫大な資金や土地、そして、様々な分野の専門家の、知識や技術による協力が必須だからだ。そのような大きな権力を考えるのは現実的ではない。実際、アラカワのように、国際的に高名な存在ですら、このようなことを実現するのは困難だった。
これは、最近ネットでみかけたあるイベントから思いついたのだけど(blanClass「dreamers(ドリーマーズ)」展)、このような構築物を「夢のなかで構築する」というのではどうだろうか。まず、自分の夢のなかに構築することを試み、ある程度それが実現できたら、それを、他の人の夢のなかにもシェアする方法を考える、という風にして。
(数日前にぼくは、夢のなかで「古いイカ」を食べたおかげで、現実で一日激しい腹痛に悩まされた。)
夢の内部に何かを構築し、それをシェアする(夢のなかに一つの共同の場をつくる)技術というのは、人類がはじまった頃からあるような古いもの(瞑想など)から、ヴァーチャルリアリティや認知科学脳科学の知見などを利用した新しいものまで、様々なかたちが考えられる。その幅のなかで、様々な工夫が可能ではないか。
インスタントにつくられる、人工的な〈完璧な懐かしさ〉。このことについて「夢のなか」で考え、実験し、構築し、実践することは、最低限自分一人からはじめられるし、小さな空間、小さな関係性、少ないお金で、かなりのことが可能ではないか。アラカワも、マイクロスコピックでも広く流通可能になるからOKということを言っている(4月21日のこの日記での引用部分参照)。
(それは、マクロに対するミクロではないし、グローバルに対するニッチでもない。たとえば、自然数は無限にあり、いくらでも限りなく拡張可能だが、しかし同時に、1と2の間にある実数も無限であり、いくらでも限りなく分割可能である。1と2の間の空間は、自然数全体の空間に比べて小さいとは言えない。)
それってつまり宗教なのでは? 別に宗教と言ってもいいのかもしれないが、アラカワがここで考えている共同性とは、社会的なものではないし、コミュニティや宗教的、秘密結社的なものでもなく、おそらくもっと潜在的な、ネットワーク的なものなのではないかと思う。だからやはり、別の名で呼んだ方がいい。
(当然のことだが、共同の場をつくるというのは、完全にシンクロするということ――伊藤計劃的な――ではなく、むしろそのまったく逆のことだ。)
例えば「芸術」というものを、他人の頭-からだの中で、なにかしらの構築物を生んでしまうような装置をつくることだ(作品は観者の経験-身体のなかにある)と考えれば、それが芸術と呼ばれてもよいことになる。しかし、アラカワはそれを認めないだろう。アラカワにとっては、明確に「芸術」では駄目なのだ。
《たとえば、バッハの音楽は反復しているというけれど、あれは反復しているのではなくて、そういう制度をつくって、反復していることにしようと学校で習っているだけでしょう。》
《もし真実の反復というものがあるとしたら、私にとっては、その肉体でしかできないもの、つまり精神の反復ではなく肉体の反復であって、それができたら、それが初めて反復と呼べるものなんです。それ以外のものは反復らしきフィクションで、制度のなかでわかりあっているだけ。》
ならばやはり、夢のなかの建築では駄目なのか。しかし、夢は精神的なものであって、そこに肉体はないと言えるのだろうか。夢のなかで歩くことと、ただ歩くことは違うのだろうか。夢のなかにも「その肉体」はあるのではないか。
ここでアラカワは、別に身体論について語っているのではない。「肉体」ではなく「その肉体」と言っていて、つまり精神に対する身体という対立が重要なのではなくて、「ある固有の肉体」がそのまままるっきり反復されることが問題になっている。そしてその固有性とは、「この私」という固有性ではなく、一つ運動に伴って、その都度あらわれる「その肉体」のことだろう。
《いま、歩きつつあるというのはまったくの処女の行為で、昨日歩いたのと、今日、いま、歩くのとは違う。いま、歩くという行為の運動と力は、<私>だけでは駄目で、肉体なしにはできない。新しい行為をすることによって、ある肉体と呼ばれているものの力が前方に、後方に反映する。その時に、まったく違ったバランスをつくることによって、つまりバランスが外在化することによって、これは下條さんが専門にやっていることだけれども、いやでも幼児の体験をすることになる。
そうすると、それは処女の体験なんだけども、まったく古い体から出てくるものは歴史的環境をつくり出すに決まっている。その時に生起するであろう私の回りの環境は、ある助けを借りれば共同性を帯びた、ひょっとしたら、「私」というより、「人」あるいは「人間」と呼ばれるかもしれない共同性を持った場を発生させるかもしれない。
そして、その時に起こりつつあり、発生しつつある現象を、何とか私の延長と呼べないだろうか? それを延長と呼ぶためには、その構造が明確でなければならず、さらにそのためには、その現象が明確でなければならない。では、その現象とは何か? 》
ある行為や運動のその度に、その都度あらわれる「その肉体」があり、その「肉体」とともに現れるある環境が、ある条件のもとで「共同性」を帯びたものとして現われることがある(肉体-図と環境-地は同時にあらわれる)。そしてその「(ある肉体の出現に伴う)ある共同性を帯びた環境」の発生という現象を、なんとか「私の延長」と呼べないだろうか(「私」に結びつけられないだろうか)、ということになる。
ここで、行為―肉体≒環境―共同性という連鎖(連結)は、「私」から切り離されたものとしてあり、それが「私というアドレス」に降りてくることになる。だから「肉体」とは「私の肉体」ではない。だからそれは、他の誰かのもとにも降りていくはずだろう。ここにおいて、精神ではなく「その肉体」の反復ということの意味が出てくる。
《そして、ここからはきみたちの判断を仰がねばならないのだけども、そこに降りていくという場合に、私のアドレスをつけることもできるし、また、あれが私だと言葉で言うこともできるけれど、ここで、反復といわれていることが問題になってくるのです。
つまり、私ではないほかの人たちをそこに放り込んで、その使用法を見つけてくれと言っているわけです。ある人が実はこうではないのかと変形して持ってきた時に、その現象を私のようにランディング・サイトという変な言葉で言うのではなく、もっと具体的に証明したり、かたちにしたりするということが《奈義》のあの環境から出てくることを私は希望しているんです。》
おそらくここでは、例えば「行為―肉体≒環境―共同性―私」→ランディング・サイトという言葉、という出来事-表現があったとして、それがそのまま「行為―肉体≒環境―共同性―別の私」→別の何かの表現、という出来事-表現として反復した時、「私→ランディング・サイト」と「別の私→別の何か」が、反復として重なり合って相互作用する、ということが目指されているのではないか。そうすると、「別の何か」もまた「私の延長」として考えられるのではないか、と。それはまさに、ネットワーク的な共同性と言えるのではないか。
このような出来事が至るところで起こり、重なり合うための場所として、冒頭に引用した団地があるのだとすれば、それは「夢のなか」という場所でも可能であるようにも思われる。