●『幽霊の真理』から荒川修作の発言をもう少し引用する。
この前、尾道に行った時、尾道に住む友人とぼくとで「マティスとデュシャンは裏表(双対)だ」という話をしていて、それについて一緒に行った別の友人から、帰りの新幹線のなかで、あの話をもう少し詳しく説明できないかと言われたのだけど、かなり疲れて頭が回らなかったこともあって(それにこれは多分に直観的な把握なので)その時は何も言えなかった。
次に引用するアラカワの発言はデュシャンについてのものだけど、それはほとんどマティスについてもあてはまると、ぼくは考えている。つまり、以下の引用がある程度はその問いに対する答えになっているのではないかと思う。
(バッハさえ認めないアラカワがマティスを認めるとは思わないが、それでも……)
《会ってまだ一年目の時に、ニューヨークの十四丁目のイタリアン・レストランで、彼は例の最後の仕事をしていたんです。その時、若いウェイトレスが来たんです。彼は足を踏みながら、笑っているんです。突然、「荒川、エロティシズム、知っているか」と言って、笑うんです、まずいスパゲティを食べながら。昼間ですから、そんなこと言われて、私はピンとこないので、ふーんなんて笑っていたんです。あれから三十五年もたってるんですけど、いま考えてみると、「懐かしさ」を呼び起こすものは、彼の場合はエロティシズムしかないということなんですね。あの人はそこまで言う人じゃないけれど、解釈すると、そうなんですね、それが基準だ、と。だから、それを発生させる場所を、彼は最後の仕事で構築した。
ところで、彼が使ってるエロティシズムという言葉は、ほかの英語でいえば、リゼンブランスか、アフィニティですね。》
《私たちがいつも定点のようなものをつくるというのは、それをさせている環境があるからなんです。そのバックグラウンドとか、ミドルグラウンドとか、フォアグラウンドとか。それを、一時的にでもいいから、器のように入れておいて、そこへ行って、二度以上同じような感じになったら、それは信用してもいいことなんです。その条件として備えていたのが、デュシャンの場合はエロティシズムだった。だけど、エロティシズムといっても、場所と状況が変われば、変わってしまうんだからね。自分が大病になって、目が使えなくなった場合の、視覚を使わないエロティシズムってどんなものだろう、と彼はそういうことを真剣に考えていた。
だけど、彼が決定的古いのは、身体の動きというのもを定まったところから眺めているからです。彼の場合は、十九世紀に生まれた一般常識と道徳が、自分の生涯のあいだにほん少し変わる、そのスピードで、考え、仕事をしてきたんだ。いまのように、一年で、彼らの生きた百年ぐらい変わる時代に彼がいたら、あんな風には考えなかったと思う。》
《私のエロティシズムは、「懐かしさ」でしょうね。この『建築』という本の主題は、視覚とか、イメージとか、ディメンションを構成させている、私たちのなかにある働きをとらえることです。視覚については、日本人では柳宗悦がいい例で、あの人は、ある皿か何かを見ながら、これはすごい、これとなら死んでもいい、と言った人ですよね。何を見たんだろう。「見た」んじゃなくて、何が、彼から、あの皿の上に、まわりに、「降りていった」んだろう。飛行機はまっさかさまに落ちたら墜落しちゃいますけど、私たちの視覚はそういうふうにも降りてゆくわけですね。とくに、人を見る眼というのは、そうやって降りてゆくわけです。背中とか後ろ側から。そのためには、イメージという概念は明確じゃないんですね。》
《イメージというのは、本当に不思議な現象です。あらゆるものがほとんど同じところにあるんですね。遠いものと近いもの、低いものと高いもの、重いものと重くないものが、同じところにある。そして私のイメージは、全部、私が隠しちゃっている。そうすると、それを明確に開けるためには、どうしてもディメンションが落ちてゆくところがいるんですね。いま挙げた三つの対は、ここにある場というものをつくり上げている条件なんです。それは、あまりにも抽象的で、無意識で、ありにもケイオティックで、誰も手をつけなかったことです。》
●イメージというのは《遠いものと近いもの、低いものと高いもの、重いものと重くないもの》が同じところにあり、それを開けるためには《ディメンションが落ちてゆくところが》が必要である、と。これはぼくにはほとんどマティスの作品について説明しているように聞こえる。