●引用、メモ。小鷹研理さんのツイッタ―から。とても面白い。
《「あちら側」だったものが「こちら側」のルール・形態に擬態して、いつの間に「こちら側」に侵入している状態が<不気味である>ことの本質であるとすると、<感傷的である>心理状態とは、「こちら側」だったものが抗う術もなく「あちら側」へと引きずられていく様に対応しているのかもしれない。》
《<不気味さ(wierd)>も<感傷(pathetic)>も、「こちら側」と「あちら側」の境界線の越境に関わる心理作用で、ただ、その越境の方向が異なる、と整理すると見通しがよくなる。》
《ここのところ<wired(wierd?)>な現象ばかりに関心が向かっているが、そういえば、昔は、高橋源一郎の小説を展開した『優雅で感傷的な動物園の動物たち』て映像をつくってたぐらいで、<pathetic>なものにすごく心が惹かれていた。なんとなく、自分の嗜好がわかった気がする。》
《<wired(wierd?)>が「きもちわるい〜」だとすると、<pathetic>は「かなしい〜」かな。数年後の戦場では、「きもちわるい」だけじゃなくて「かなしい」という言葉を引き出さないといけない。課題は多い。》
https://twitter.com/kenrikodaka/status/864703085649698816
https://twitter.com/kenrikodaka/status/864708783301210112
荒川修作が「懐かしさ」という言葉で表現していたものが、ここで言われている「weird(きもちわるい〜)」と「pathetic(かなしい〜)」が合成されたものにちかい感情(感覚)だったのではないだろうか、とか言うのはちょっといい加減過ぎるか……。以下、『幽霊の真理』から引用。
《会ってまだ一年目の時に、ニューヨークの十四丁目のイタリアン・レストランで、彼(デュシャン)は例の最後の仕事をしていたんです。その時、若いウェイトレスが来たんです。彼は足を踏みながら、笑っているんです。突然、「荒川、エロティシズム、知っているか」と言って、笑うんです、まずいスパゲティを食べながら。昼間ですから、そんなこと言われて、私はピンとこないので、ふーんなんて笑っていたんです。あれから三十五年もたってるんですけど、いま考えてみると、「懐かしさ」を呼び起こすものは、彼の場合はエロティシズムしかないということなんですね。あの人はそこまで言う人じゃないけれど、解釈すると、そうなんですね、それが基準だ、と。だから、それを発生させる場所を、彼は最後の仕事で構築した。
ところで、彼が使ってるエロティシズムという言葉は、ほかの英語でいえば、リゼンブランスか、アフィニティですね。》
●うーん、違うか。荒川が、エロティシズムは「懐かしさ」であり、言い換えればそれはリゼンブランスであり、アフィニティであると言う時、そこには「きもちわるい〜」も「かなしい〜」もないようにみえる。
ただそれは、この引用部分の言葉だけから読み取れることにすぎないのかもしれない。たとえばデュシャンの「遺作」を具体的に思い起こして、あの作品からリゼンブランスとかアフィニティを読み取るとしたら、その時にリゼンブランスやアフィニティという語の内実は揺らがずにはいられない。分厚い仕切り板があり、覗き穴から対象を覗くしかないデュシャンの「遺作」では、一般に、決して触れることの出来ないエロティックな対象(イメージ)との隔たりが指摘されるが、荒川はそこに、懐かしさ、類似性、親しみ、を読み取っている。つまり荒川は、これらの語に通常使用されるのとはかなり異なるコノテーションやニュアンスを付与している。
あるいは、荒川の作品や様々な言動を思い起こしてみる。『幽霊の真理』の最後の方でとつぜん語られる少年時代の体験---血だらけで瀕死の状態で病院に運ばれてきた少女を見て、衝動的に裸になって抱き着いてしまう---は、荒川的エロティシズム、荒川的リゼンブランスが、非常に高い強度の「きもちわるい〜」と「かなしい〜」とが圧縮され一体化することによって生成されたものであることを物語っているようにも思われる。
(この時点での、この考察はかなり雑なものだ。)
●以下もまた、『幽霊の真理』から引用。幽体離脱的実験をさまざまな人たちがそれぞれ勝手にやってくれるといい、と。
《私のエロティシズムは、「懐かしさ」でしょうね。この『建築』という本の主題は、視覚とか、イメージとか、ディメンションを構成させている、私たちのなかにある働きをとらえることです。視覚については、日本人では柳宗悦がいい例で、あの人は、ある皿か何かを見ながら、これはすごい、これとなら死んでもいい、と言った人ですよね。何を見たんだろう。「見た」んじゃなくて、何が、彼から、あの皿の上に、まわりに、「降りていった」んだろう。飛行機はまっさかさまに落ちたら墜落しちゃいますけど、私たちの視覚はそういうふうにも降りてゆくわけですね。とくに、人を見る眼というのは、そうやって降りてゆくわけです。背中とか後ろ側から。そのためには、イメージという概念は明確じゃないんですね。》
《そして、ここからはきみたちの判断を仰がねばならないのだけども、そこに降りていくという場合に、私のアドレスをつけることもできるし、また、あれが私だと言葉で言うこともできるけれど、ここで、反復といわれていることが問題になってくるのです。
つまり、私ではないほかの人たちをそこに放り込んで、その使用法を見つけてくれと言っているわけです。ある人が実はこうではないのかと変形して持ってきた時に、その現象を私のようにランディング・サイトという変な言葉で言うのではなく、もっと具体的に証明したり、かたちにしたりするということが《奈義》のあの環境から出てくることを私は希望しているんです。》