ロールズの「無知のヴェール」に対してのあり得る批判として、人の判断基準や価値基準は、生まれた環境や属するコミュニティ、あるいは生まれ持った身体的、知的能力などによって決まってくるものなので、それらをすべて括弧に入れて、生まれる前の未だ何ものでもない者として何かを判断することはそもそもできないはずで、その思考実験は成り立たない、というのがあるだろう。
そのような批判的攻撃に耐え得る対案として、『地界で考える社会正義』で金子守が主張している、すべての人が巨大水爆のスイッチをもつ、という状況を考える思考実験がありえる。つまり、すべての人が人類を絶滅させられるだけの力を等しくもつ、という状況を考えてみる。このような状況ではじめて、多様性と平等性が同時に成り立つ。このような状況の中で、どのような社会制度が望ましいのか皆で相談するとしたらどうなるか、というとき、無知のヴェールと同等の効果が生まれる。
とはいえ、そのような状況はあまりに不安定で、(人類の)持続可能性があまりに低すぎる。六十億人のなかの一人でも、人類を滅亡させたいと望む者が出た瞬間に人類が終わる。
そこで、譲歩案として、「VR幽体離脱による無知のヴェールの代替物」ということが考えられるのではないか。成人するための通過儀礼として、一年くらい、毎日日替わりで、世界中にいる誰かをランダムに選び出し、その人の身体感覚をVRによって経験することが義務付けられる、としたらどうか。他者の、視覚だけでなく五感の全てをVRによって実際に体験する。ある日は、ニューヨークの高層マンションの最上階に住む大金持ちであり、ある日は、父親から恒常的にレイプされつづけている貧しい家の娘であり、ある日は、粛清に怯えてびくびくしながら独裁者のご機嫌をうかがう側近である、というように(こういう極端な例は少なく、大部分は退屈な日常かもしれないが、それはそれで意味がある)、一年かけて、ランダムにピックアップされた世界のどこかにいる365人の一日を、その身体感覚を伴って追体験する(『マルコヴィッチの穴』的な)。「無知」の逆として、複数の様々な立場を「わたしとして」否応もなく強制的に体験させる。この経験は、「無知のヴェール」の等価物として有効なのではないか。
(頭がおかしくなってしまうという可能性もあるが……。)
(まあ、そもそも、他人の感覚をほぼ完璧に追体験するということが技術的に可能になったという時点で、それだけでかなり---逆説的だけど---人々の感覚は無知のヴェールに近づくように思われる。たとえば、誰かがバンジージャンプをした「体感」を、SNSでシェアする、とか。)
●「astronaut.io」は、そのような世界の入り口であるように思う。
http://astronaut.io/#