●小鷹研究室「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」(やながせ倉庫・ビッカフェ)について。
「自分がある」という感覚に最低限必要なのは、(1)特定の時空間に定位していること(今・ここ、があること)、と、(2)前後、上下左右など、方向性をもつ視点(一人称視点)があることで、そこに「身体をもつ」という感覚は必須ではない(たとえば、夢のなかでは身体がなくても「自分がいる」ことがある)。
そして、ここにあるこの身体を「わたしの身体」であると感じるとき、その根拠となるものにも二種類あると考えられる。(1)それを自分の意思で操作しているという感覚(主体感 agency)、と、(2)主体感がなくともなお、それを「自分のものだ」と感じる感覚(ownership)。
ここで(1)のagencyに関しては、たとえば指をパチンと鳴らすと遠くのガラスが割れるなど、運動感覚と出来事との間に時間的同期を設定することによって容易に拡張可能であるが、(2)のownershipは、そう簡単には拡張が可能ではない。Ownershipの拡張や移行には、その対象イメージが(向きも含めて)人の身体と同型であることと、それが身体の近傍空間に配されていることが必要になる。たとえばフルボディイリュージョンにおいては、人型のアバターが背中を向けていること(「わたし」と同じ方向を向いていること)や、アバターとの距離が1〜2メートル程度であることが必要であり、アバターと対面していたり、距離が離れてしまったりすると、ownershipの移行は起こらなくなる。
(ただし、人が仰向けに横たわった状態でヘッドマウントディスプレイを用いてフルボディイリュージョンの実験を行うと、重力に反して、アバターを上から見下ろすような---自らがうつ伏せであるような---視点を経験することがある。仰向けに横たわった状態では、重力の反転による、視点の反転が起こりえる。)
VRを用いた仮想的空間において、多くの場合、「自分がある」という感覚(一人称視点)と、身体的なagencyの同期や拡張によって没入が果たされたことになっている。しかしその時、身体のownershipは置き去りにされている。なので、VRによる仮想空間体験のなかで、仮想的な空間の方に注意を向けるときには没入感を得られるが、自分の身体に注意を向けると、没入がそがれることになってしまう、という。
そこには、たとえばラバーハンドイリュージョンによって得られるような、「わたし」あるいは「わたしの身体」という自明の感覚を揺るがすまでの、直接的に「くる」ような、強度をもった「気持ち悪さ」は生じない。Ownershipの移行には、agencyの移行のような、自由度や拡張性はないが、より直接的に、深く効く、本質的な不気味さがある。
とはいえ、たとえ身体のownershipが置き去りにされているとしても、仮想空間の内部に「自分がある(視点がそこにある)」という強い没入感が得られるようになったのは、ヘッドマウントディスプレイが、頭部の動きや傾きをきわめて正確にトレッキングできるようになり、それと仮想空間とを精密に同期させられるようになったからだと言える。
そうだとすれば、(仮想空間の外、現実においても)「自分がある」という、必ずしも身体を必要としない感覚(「今・ここ」と一人称視点)と、それとは別の「わたしが身体をもつ」(agency・ownership)という身体的感覚とを媒介的につないでいるのは、「頭部」という身体の特異的な部位ということが言えるのではないか。頭部は、一方で、必ずしも身体を必要としない、今ここを定位し、方向を定めるための抽象的な「わたし」の位置であると同時に、それ自体が(「自分がある」という感覚から切り離され得る)物=身体の一部であり、それ自体として、自分から分離して、ごろっと存在しているような何かでもある。
「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」において、「手」と同じくらいの重要性をもって「頭部」が意識され、また、重力の反転、受動と能動の反転、身体の伸縮、「ここ」と「そこ」との取り違え、などと同じくらいの重要性で「頭がぶっ飛ぶこと」が意識されているのは、頭部こそが、「自分がある」ことと「身体を持つ」こととが「重なり」、かつ「分離している」という事実、その、融合と矛盾の食い違いから生じる気持ち悪さが、とても直接的にあらわれるからではないか。
●で、このことは、それ自体で「幽体離脱(一人称視点と三人称定位の分離)」そのものではないと思うけど、それを誘発する重要な契機の一つと言えるように思われる。
(小鷹研理「HMD空間における三人称定位」「HMDによる構成的空間を舞台とした「三人称的自己」の顕在化」を参照)
(つづく)