●小鷹研究室「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」(やながせ倉庫・ビッカフェ)について。一昨日からのつづき。
幽体離脱的な経験には、おそらく三つの段階があって、層として重なっている。
一つめは「視点(自分がある)」と「身体(主体感 agency・所有感ownership)」との間の空間的な分離。「わたし」が「そこ」にあるという感覚。これは、通常意識化されている一人称的視点と、その背後で潜在的に働いている三人称的な空間把握という、二つのことなるマトリクスの間で齟齬が露呈するということだと考えられる。
二つめは、「視点」からも「身体」からも主体感 agencyが奪われるという段階。そして、このagencyの消失に伴って、通常の agencyとセットになっている所有感ownershipとはことなる、別のownershipが、ある種の気持ち悪さとして浮上してくる。この時「身体」は、半ば「わたしのもの」であり、半ば「物」としてわたしから切り離されているように感じられる。それは、わたしの身体であるのに「物」であり、同時に、物であるのに「わたしの身体」である。
(ここで、物であるかのようにあらわれる「わたしの身体」は、気味の悪い、不安をかき立てるものであると同時に、どこか懐かしい=既視感のあるものだと感じられる。)
この二つめの段階において、「ここ」と「そこ」、「わたし」と「物」との間の交換可能性(とりちがえ)の感覚が可能になるように思う。わたしの身体が別のテクスチャーや別の位置をもち得るようになり、別のテクスチャーや位置となったわたしの身体を経験する(「手紙の錯覚」や「軟体生物ヘッド」など)。
三つめは、「わたし」が「そこ」にあるという感覚に対する反転のようにして、「他者」が「ここ」にある、という自他の混同、あるいは混交の感覚の現れがある。これは、「わたしの身体であり同時に物である」という、第二段階を媒介として侵入してくるように思う。しかし、二つめ感覚が、agencyの放棄によって生まれるのに対して、この三つめの感覚はむしろ、agencyの混同や取り違えを通じて現れるように思う。「私の身体であり同時に物である」という時の「物」に対して、何かしらの(わたしから切り離された別の) agencyが感じられる時、「ここ」に切り込んでくる「他者」の気配を感じるのではないか。
(三つめの感じはとりわけ、クロスした手を媒介とした左右の取り違え、横たわった時の重力の反転を媒介とした、見上げることと見下ろすこととの反転によってもたらされるように思う。)
これらは、第一段階から第三段階へと進んでいくというより、常に層として重なってあり、その都度、どこかの側面が顕在化するという感じだと思われる。
●以下、画像は「からだは戦場だよ2018Δ 予告篇(小鷹研究室)」より
https://vimeo.com/306734831
●「Self-umbrelling」は、特に二つめの感覚を強く惹起するように思う。必ずしも身体を必要としない一人称視点と、「わたしが身体をもつ」という身体的感覚とを媒介的につないでいる「(自分の)頭部」という身体の特異的な部位を、(自分の)両手で掴んで前後左右に傾ける(ここでagencyは両腕の方により強くあり、頭部のagencyは後退する)。この時、ヘッドマウントディスプレイにより、自分の頭部の傾きと同期した頭蓋骨が、自分の視点のやや前方に示される。ここで頭部は視点の起点(基底)であるよりはむしろ、両手によって掴まれた物としてあらわれ(起点は両手による触覚的把持の方により強くあり)、それを見ている視点は頭部からやや分離する。
骨(頭蓋骨)としてあり、agencyも後退した「物」としての頭部に対して、そうであるにもかかわらず、というか、物として意識されるからこそ、普段とは違う形の、違和感としての別のownershipが湧き上がってくる。




●「頭部を着脱する感覚」は、いくつかのパターンがあるが、(現実空間で)賞状を入れる筒の頭の部分をスポッと抜く行為(能動)と、VR空間で「わたし(小鷹さん)」のアバターから首(頭部)がその位置からスポッと抜けるという出来事(受動)が同期するという装置だ。
自分の手で筒を抜く(能動)行為と、自分の(アバター)の首が抜けること(受動)とが同期することで、agencyが混乱する。この時おそらく、賞状筒が抜けるスポッという感覚と、頭部が本来ある位置からスッとずれる感覚との間に、時間的同期によって一種の隠喩的な結合が生まれているのではないか。「抜く(能動)-抜ける(受動)」というagencyの転換が、軽くて爽快な「スポッという---聴覚的、触覚的、運動的---感覚」を媒介とすることで、(転換とか反転とかいうよりも)混じり合っている場が生じるような感じになる。
まず、(現実上で)賞状筒を持っている位置に小鷹さんのアバターがあらわれるパターン。筒をねじることでアバターの首も同期してねじれる。この時、わたしの視点は他者としての(小鷹さんの)アバターと正対していて、agencyは通常通り手元にある。この時「わたし」は、対面している他者としてのアバターの首を抜くような感覚で(たとえば人形の首を抜くように)、賞状筒をスポッと抜く。すると視点が転換して、わたしの頭部があった位置から、わたしの視点がスポッと上方に抜けるようにずれる(わたしの首が抜ける)。わたしの能動性と対面していた他者の位置が、わたしの受動性と「ここ」に位置するわたしへと転換する。だが、ここでは転換の違和感よりも、「スポッ」という爽快感の方がより強く「くる」。



次に、目の前に後頭部があらわれるパターン。その後頭部は「わたし」の頭部の動きと同期する。つまりそれは「わたし」のアバターである。そして、手元の賞状筒をスポッと抜くと、首が抜けて、頭部と視点の位置がずれる。この時、首は、傾けている方向に向かってずれる(真上に向かって首が抜けるより、頭部を後方に傾けた状態で抜ける時の方が、「スポッと首が抜ける感覚」がより強く「くる」)。ここでは、抜く(能動)-抜かれる(受動)の転換というより、自分の首が抜けるという出来事を手元で遠隔操作をしているという感覚の方が近いように思われた。
(このパターンには、抜けた頭部と視点が、抜けた後に上方にそのまま留まるパターンと、首がバネでつながれているかのように、スポッと抜けてスパッと元の位置にすぐ戻るパターンとの二つがあり、この二つはかなり味わいが異なる。)



さらに、上に向けてスポッと抜けた頭部が、そのまま「物」のように放物線を描いて落下し、地面にぶつかるというパターンもある。ここでは頭部が、視点という役割を担ったままで、「物」としての側面も強く惹起されることになる。そしてここでは再び(最初のパターンのように)、抜く(能動)-抜かれる(受動)の転換が意識される。抜かれた(受動的な)わたしの頭部(視点)から、(受動的)わたしと正対する、抜いた主体である(能動的な)わたしが見えるようになっている。




賞状筒を抜いたのはこのわたしであるはずなのだから、それを抜いたその瞬間まで、わたしは、今、正対して見えているあちら側の「わたし」の位置にいたはずなのだ。しかし、抜いた瞬間にこちら側に転移し、今では、(過去に抜かれた多くのわたしたちと同様に)床にごろっと転がっている。能動的な唯一のわたしが、(スポッと首が抜ける軽快な出来事を介して)受動的な多くのわたしたち(のうちの一つ)へと転換−転落する感覚は、けっこう強烈だ。
(もう少し、つづく)