●昨日からの続き。「人間は考えヌ頭部である(からだは戦場だよ2018)」(やながせ倉庫・ビッカフェ)について。
●『Immigrant Head』(漂流頭部)
https://twitter.com/i/web/status/956686973804060672
エルボリストが、目玉の反転とそれに伴う身体操作の反転(交差)をつくりだす装置であり、セルフ・アンブレリングが重力の反転をつくりだす装置であるというように「反転」が大きな要素だったのに対し、イミグラント・ヘッドは反転ではなく、視点の身体からの離脱(分離)が主な問題となっている。
HMDを装着すると、目の前に人の後頭部があり、その後頭部は自分の頭部の動きと同期する。この時、自分の運動感覚と同期するこの後頭部にどれだけ「自分感」を感じられるのかという点がまず大きくある。
ここから、頭を後ろに倒すと、目の前に見える後頭部から、もう一つの後頭部が抜け出て、ゆっくりと斜め後ろへと上昇していく。これが、最初から目の前に後頭部があるのではなく、いわゆる一人称視点から始まり、視点が離脱するにしたがって(そこから抜けていく自分の)後頭部があらわれるとしたら、いわゆる普通の「幽体離脱」の再現になるのだろうけど、はじめから後頭部は自分の外に見えており、離脱される後頭部と、離脱する後頭部という風に、後頭部が二つに分離しているというところがミソなのだろうと思う。
体験者の視点は、離脱する後頭部に寄り添って上昇するので、体験者は、自分を見下ろしている後頭部を、さらにその背後から見ている感じになる。しかしこの離脱した第二の後頭部は、外から見ているとはいえ、かなりの程度で「自分」なので、三重に分裂している感じはない。むしろ、この(完全にぴったりというわけでもないのだが)「かなりの程度で自分」である第二の後頭部が目の前にあり、視点との安定した距離と同期を保ちつづけることで、視点が離脱前の第一の頭部(身体)からかなり距離が離れた後でも、他人を俯瞰して見ているのではなく、その遠くの身体にも「自分」を感じられるための紐帯となっているように思われた。
後ろに傾けていた頭部を前に傾けると、今度は少しずつ二つの頭部が近づいていく。そして、最終的には分離した頭部と分離された頭部が再びぴったりと重なる。この体験でもっとも印象的というか、気持ちの悪い感じがしたのは、この、二つの頭部が再び重なる時の「感じ」だった。分離されてしまったものが再統合された(元に戻ることが出来た)のだから、安心感のようなものがあってもよいと思われるのだが、一致することそのものにかなりの違和感が発生した。この気持ちの悪さは何なのだろうか。
イミグラント・ヘッドでは、もう一つ別の体験が出来る。ヘルメットをかぶって、目の前でドラを鳴らされると、そのドラの音に合わせてヘルメットが振動し、その瞬間に身体から頭部が切り離されて後ろへと吹き飛ばされる(この時は、頭部は分裂するのではなく、首が切られ、首なしの身体が残される)。後ろへ吹き飛ばされて床に転がった頭部は、二度目のドラの音とともにもう一度跳ねあがって、前方にゴロゴロッと転がっていく。
ここで吹き飛ばされるのは頭部(によりそった視点)のみであって、重力の感覚は身体の方に残されている。体は立っているが、視点だけ飛ばされ、床に転がる。そして、頭部は転がって回転するが、頭部に寄り添った視点そのものは回転しない。視点は、たんに後ろに吹き飛ばされるだけ、とも言える。実際に立っているという体感も、VRによって生じる吹き飛ばされる視点も、上下(重力)の軸というか、正中線そのものは揺らいでいない。しかし、にもかかわらず、二度目のドラとともに前方へと(自分の)頭部が転がっていく時に、視点そのものも回転しているかのような(ごく軽いものではあるが)「酔い」のような感じが発生したのが不思議だった(視点そのものが回転していわゆるべクションが起るのなら分かるのだけど)。おそらくそれは、この時この頭部が、ある程度は「自分」だったからではないか。
(もう少し、つづく)