2019-05-02

●今年一月にあった小鷹研理さんのレクチャーが、テキストになっていた。これは、小鷹さん自身による小鷹研理入門のようになっていると思う。

IAMAS「これからの創造のためのプラットフォーム」×「からだは戦場だよ 2018Δ」共催によるレクチャー『からだの錯覚、日常にひそむ異界の風景』の講演録「からだの錯覚」

http://sozoplatform.org/body_illusion/

●以下、自分のための引用、メモ。

●ミニマルなセルフ(「自分」を成立せしめているプリミティブなレイヤー)

《<自分>を成り立たせているものに、「ナラティブなセルフ」(物語的な自分)と「ミニマルなセルフ」というのがあって、ウチの研究室で出てくるような話は「ミニマルなセルフ」の方。これは、記憶とか、自分がどこで生まれたとか、個人の背景とかとは関係のないところの話で、そもそもの「自分」が「自分」としてあるギリギリのところ、「自分」を成立せしめているところのプリミティブなレイヤーのことを指します。そして、そういう意味での「自分」に切り込みを入れていくことで「自分」を別様なかたちへと組み替えていきたい、そんなことを考えています。》

●頭部のない自分を想像することの困難

《(…)身体のない自分を想像してみるってことをやってみるわけです。そのときに、多分、簡単にできるよって人とそうでない人がいるはずで。それでは次は、身体全部ではなくて、手足だけがない自分を想像してみる。で、これもまあ、意外と簡単にできそうだと。じゃあ、以上を踏まえて、最後に、「頭部のない自分」を想像してみましょう。頭部だけなくて、他は揃っているんですよ。こういう思考実験って、あるのかわかんないけど、僕は最近思いついて、結構面白いと思っているんです。》

《それで、やってみると、<頭部だけない自分>って想像するのがものすごく難しい。ほとんど不可能に近いんじゃないかと思うんですね。逆の言い方をすると、さっきの「身体のない自分」を想像する時にやっていたことって、全ての身体を透明にしていたつもりだったかもしれないけれど、実のところ「見えない頭」みたいなものを捨象しきれていないんじゃないかという、そういう感覚がある。僕たちは(重さを持とうが持たまいが)頭部を起点としてしか世界を見られないというか、そういう形でこういう身体を運用している、あるいは(実物であれ透明化したものであれ)視点を内在した頭部を持っているということと、自分が自分であるということは切っても切り離せない関係にあるんじゃないか。逆にいうと、ここが壊されると、もはやどのようなかたちで「自分」というものが成立しうるのか、途端にわからなくなる。》

●おそらく以下で「粘土」と言われているものは、ある程度の可塑性をもちながら、それ自身としての特性や傾向性をもった物質的なものであり、それによって、この私≑この身体がかたちづくられているマテリアルのようなものなのではないか。

《(…)僕が考えたいのは、(…)この身体をこの身体ならしめている、生々しい可塑的な場所へと降りていく態度についてなんです。だから、解釈と言うよりは事実の上に立っている、今こういう粘土的な場所の上に立っているというところまで降りてくる感じなんです。そういう場所が、僕の中では「ボディジェクト」なんです。そこから身体の偶有性を考える。こういう粘土の上にいまの自分があるということを遡行的に考えるわけです。》

《逆に言うと、この種の状況は外側からのノイズに開かれてて、何かが不意に降ってきた時に粘土の凹凸が変わって、その時に自分が全く別の有様に変わってしまうかもしれない。それに、この粘土の肌理なんかにそもそも意味なんか何もなくて、そうすると、自分がいまこういう身体であることの偶有性、別の身体でもあり得たという想像力を働かせることにつながるわけです。それはもっと言うと他者への想像力にもつながってくる。ここではそういうイメージを持ってもらいたいと思います。》

●セルフタッチ錯覚。自分であるとも他人であるとも登録されていないような未分化状態において、自分の身体を、自分の身体の領域のものとして”発見”していく過程。

《セルフタッチ錯覚とは、他人の身体(O)を触るのと同時に自分の身体(S)を(誰かに)触られるという状況で、本来は他人の身体(O)を触っているにも関わらず、自分の身体(S)を触っている感じが得られるというものです(その意味で、「誰か」の触る行為を自分の行為としてジャックしていることになる)。この(O)は、他人の身体でなくても、例えば机の表面とか人形なんかでも成立します。つまりセルフタッチ錯覚というのは、モノや他人の身体であったはずの(O)が、自分の身体であるところの(S)に吸着して身体化する現象なのですが、これは、例えば初期状態として、自分のこの身体が、自分であるとも他人であるとも登録されていないような極端な未分化状態を想定したとき、僕たちが、自分の身体の場所を、まさに自分の身体の領域のものとして”発見”するための重要な能力なのかもしれない。》

●錯覚を強く感じる人と、まったく感じない人。

《なんで僕がこういう研究をやっているのかというと、こういう研究って、錯覚を感じない人はわざわざやらないですよね。そもそもわかんないというか。でも、僕は幸い、ものすごく錯覚を感じてしまう方の人間みたいで、モノが身体に転じる時の「ストン」という気持ち良さを一度知ってしまった後は、もうずっと、病みつきになってしまっているようなところがある。それが一つ目の動機。他方で、これほど強烈な錯覚を、目の前の人はまるで感じていないというような場面に多々遭遇することになると、自分にとってのあたりまえが隣人にとってのあたりまえではないこと、そのような身も蓋もない(しかし強烈な)現実を自覚できるようになる。そこを探求したい、というのがもう一つの大きな動機なんです。》

《おそらく、ある錯覚について、感じる人と感じない人はそれぞれに異なる<粘土>を持っていて、その土壌に固有の凹凸が足場となって、それぞれが特異的な世界のパースペクティブが形成されている、、僕はそのような見立てを持っている。だから錯覚の感度の個人差を考えることは、「自分とは何者か」という、極めて個人的な問題意識とつながっているわけで、そのような意識は、当然、他者に対する想像力を考えるための足がかりにもなる。》

●「錯覚」の強さや頻度は、たとえば「同期の正確さ」のようなものに依存するというより、錯覚する人は、むしろ精度の粗さを越えて「能動的に騙されにいく」。

《でも、ここで重要なのは、錯覚を感じる人の多くは、(少なくとも当初は)触覚の違いをかなり強く意識した上でも錯覚状態に入れるということです。かなり感度の高い人は(僕も含めて)、机の表面を自分の身体の皮膚と見做すことさえできる。そもそも他人の手を触っていることははじめからわかっているわけだし、触感とか温度感覚がまるで違うのものに触れているということもわかっている。でもそれを、ある時点でまるごと無視してしまうような回路を作動させて、能動的にのこのこと騙されにいくような感覚がある。この、「違いを意識したうえであえて錯覚の渦中へと転がりこむ」というプロセスが、実は、錯覚者全般にとって実際に起こっていることなのです。》

《こうやって大勢で一斉に錯覚を体感してみる意義というのは、やっぱり、目の前に自分とは180度違う感じ方をしている人がいるという、その現実を直視することだと思うんです。僕らと彼らは、全く異なる粘土を土台として、それぞれに固有の世界への志向性が立ち上がっている、ということを実感する。そういう他者たちと僕たちは共存している。これは錯覚者の側である僕の言い分だけど、現に僕がそこに見ているものが、隣人から否定される。何もないと。。これって、やっぱり僕にとって、すごい衝撃なんですよね。だから、僕にとって、人と人がわかり合うなんて、土台無理な話なんだ、というある種の冷めた感覚がある。「土台無理」という現状認識から、そのうえで、そういう分かり合えない人たち同士が共にあるということの意味を考える。セルフタッチアラカルトは、その種の問題を考える上で、このうえない良質なトレーニングだと思うのです。》

●ぼくが強く興味をひかれるのは、通常、(アバターに「自己」を感じる)フルボディ錯覚が生じないとされる「対面状態」にある対象に対しても、ある特定のレイアウトにおいては、「そこにいるわたし」という錯覚が(自分との「対面」が)生じるということだ。

一つは、斜め上からの視点を「見上げる-見下ろす(目が合う)」という関係にある時で、もう一つは、横たわった時に、容易に重力反転(「見上げる-見下ろす」の反転)が起こることによってだという。

《「Recursive Function Space」の右手側の体験は、要するに、右手でカメラを持っていて、そのカメラは常に自分の(アバターの)頭部にレンズを向けている、ということなんです。そのような右手から出発して自らの頭部へと収斂するカメラからの風景を、自分の視点として体感するというものなのですが、視点をアバターの周囲でぐるぐると回していると、アバターに対して何とも言えない、ゾワゾワってくるポイントがいくつかあることに気付きます。(…)ここで問題にしたいのは、(フルバディ錯覚が起きないとされる)対面状態です。対面状態というのは、基本的に自己と他者との関係性をビルドするフレームで、自己の分身的な投射が起きづらいとされています。ただ、「Recursive Function Space」で右腕を目一杯に上に振り上げ、その右手の先からアバターを見降ろしてみる、ということをやってみるんです。そして、そこに見えているアバター(である自分)が、今度は、右手の方を見上げてみる。そうしてそんなアバター(である自分)と目が合ってしまう時、、この体験はとてつもなく僕にとってやばかった。》

《自分のアバターって、言ってみれば単なる人形ですよ。なんだけど、この特定のレイアウトをとるときに、なんだかよくわかんないけど「そこに自分がいる」という感覚になる。この他人なりアバターは、もちろん自分とは違うんだけど、一方で、自分の収まるべき場所、本来いるべき場所なんだと思う、みたいな。なんだか放って置けない類の強烈な既視感が発せられている。グッと捕捉されている感じ、というか。》

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《再度、小鷹研究室の作品の話に戻ると、「I am a volleyball tossed by my hand」でも「Recursive Function Space」でも、HMDを装着している体験者は、物理的なレベルでは上(天井の方)を見上げ、主観的なレベルではHMD空間の中で下(地面の方)を見降ろしている。この特徴的なレイアウトを『天空を見降ろす』という言葉で代表させました。ここにはある種の反転が生じている。そして、実際、本当の幽体離脱も、いろんなケースが報告されてはいるけれど、寝転がっている状態の自分を上から見降ろすかたちが典型的なレイアウトであると言われています。実際、みなさんが幽体離脱と聞いて思い描く絵もそのようなものだと思います。そうした事実をつなぎ合わせてみると、どうやら寝転がってる状態というのは、視線の先にある天空を地面として”誤って”感覚すること、その種の重力錯覚を感じやすい特別な状態にあるのではないか、そのような推測ができるわけです。》

《とにかく、世界を転覆させたかったら寝転べばいいんですよ。反転した世界を体感したければ、ただ寝転べばいい。リラックスした状態で横になる。そうすると、突然、視点が地面から天空へとワープする。そして、これはやってみるとわかるんですが、この転調は、ものすごく気持ちがいい。》

●そして、「ご長寿早押しクイズ」の重要性。ここでご長寿たちにおいては、自分の頭のなかから聞こえてくる声(思いつき)と、自分の外から聞こえてくる声(他人の声)との区別が怪しくなっていて、それによって、この場全体が「一つの脳」のように機能しているように思われる。

ご長寿早押しクイズ名人戦8 part2

https://www.youtube.com/watch?v=zg2iX9mZPjk

《ここで顕著なのは、自分もまた他人であり、他人もまた自分である、とでもいうような、自分と隣人たちの神経回路が全部つながってしまっている感じだと思うんです。あるいは、一人の脳の中でうごめいている膨大な連想の連鎖が、全てダダ漏れとなっているような感じというか。これまでの話とつなげるならば、ご長寿は、隣から聞こえてきた言葉を、あたかも自分の無意識の中の響きとして受け取っている感じがするんです。出演者の反応をよくみてみると面白いのが、みんな、隣の回答者から漏れてきて言葉に対して、「ハッ」としてひらめいた表情をみせて、目をすごく輝かせて、堂々と全く同じ回答や、少しだけずれた回答を被せてくるでしょう?この感じ、ひらめき問題を考えるうえで、すごく重要なことだと思ってて。「ご長寿早押しクイズ」でよくみる、矢継ぎ早に怒涛のごとく言葉の連想が展開していき、次第に音楽的な塊へと成長していく時、ご長寿たちは、すごく楽しいんだと思います。だって、毎回毎回ひらめきまくってるから。隣人の言葉を、自らの内なる言葉として受け取り、無意識がざわめきまくっている。「ご長寿早押しクイズ」の気持ち良さは、この種の、「ひらめき」が発動する条件に対する寛容さ、自由さにあると思うんです。そして、僕たちが創造的になるためには、ときに、「ご長寿早押しクイズ」でご長寿がみせるような”勘違い”が必要な気がするんです。》