2021-11-16

●「無断と土」、「pot hole(楽器のような音)」を読んでから、改めて『半睡』(佐々木敦)を読んだのだが、つづけて読んで感じたのは、山本さんの仕事と佐々木さんの仕事との意外なくらいの共鳴だった。「pot hole(楽器のような音)」の冒頭には、《人間は他人を救うのとおなじ次元で、じぶんを救うというようにはできていません》という吉本隆明の言葉が置かれているのだが、この言葉は『半睡』の冒頭に置かれていてもおかしくない。あるいは、山本さん(たち)の小説と佐々木さんの小説の間に、山本さんの大林宣彦論を置くと、二つはきれいにつながるようにも思われる。

(一人二役と二人一役の問題、そして作品が慰霊のようなものとしてあること、そして、わたしからこぼれ落ちる他人としての「わたし」と並行世界の感触など…)

●『半睡』の主人公で話者である「わたし」は、2012年3月1日から2020年3月11日まで、八年の時間をかけて11日(10+1日)分の日付つきの手記を書くのだが、そこに書かれていることはほとんど、2012年以前に起こった事柄だ。手記を書いている8年間に(手記を書く以外に)「わたし」が何をしているのかはほとんど分からない。この手記が書かれるきっかけとなった2012年2月29日以降に起こったことで手記に書かれているのは、2012年にアピチャッポンの(2002年につくられた)映画を観たことと、2016年に東京都現代美術館で「キセイノセイキ」を観たこと、Y・Yと定期的に会っていたこと、そしておそらく2019年にY・Yが亡くなったことくらいだろうか。この手記に日付がついているのは、この手記に書かれているのは、過去の出来事だけでなく、過去の出来事を書くために必要だった時間でもあるということを示すためだろう。だかその「時間」は、その時間に起きた出来事や、その時間の間に「わたし」が行った事柄によって表現されるのではなく、ただ、四年に一度「うるう年」が巡ってくるという、時間を外側から規定する反復的な「形式」によって表現されるのだ。

また、この手記が、十日(+一日)分の手記という形をとっているのは、この手記が夏目漱石の「夢十夜」の形式を借りているからでもある。つまりこの手記は、うるう年という暦の形式、「夢十夜」という文学史上で有名なテキストの形式を借りることによって、そのようにして外側から「形」を強いられることによって、(書くことへの抵抗感に抗して)書くことの持続させる力を得ているということだ。

(つまり、この饒舌にも感じられる手記には「書かれていないこと」欠落が多くある。むしろ、書かれていないことを書かないために饒舌であるかのよう感じられる。というか、「書かれていないことを書かないために書く」ような饒舌を通じて「書かれていないことがあることを示す」ように書かれている。)

●この手記を書く「わたし」が、どんな仕事をしているのかもはっきりとしない。不安定な仕事とされ、たびたび「仕事」をMやNに会えない理由とするのだが、具体的なことは分からない。後半になって、Nと出会ったきっかけが「編集者」による取材を介したものであること、そして、Y・Yが「わたし」に「ああ、君のこないだの、とても面白かった、またしても新境地だね、じつに羨ましい」と言うことで、おそらく作家ではないかと推測される(「またしても新境地だね」という評言は「この手記」を書いている者には似合わないように感じるのだが)。しかし、普段から「書く仕事」で忙しくしている「わたし」が、不眠によって手記を書く時間が得られるのだということになり、そうなると「わたし」はひたすら書いてばかりではないかと思う。「わたし」は、(Y・Yとは対照的な)旺盛に執筆する多作な作家ということだろうか。だとすれば「わたし」は、「この手記以外にも多くの文章を書いているのだ」ということも「この手記」に書いていないことになる。

(この「わたし」が「佐々木敦」ではあり得ないのは、2001年にMに誘われるまで『ツィゴイネルワイゼン』という映画を観たことがなかったばかりでなく、その存在さえも知らなかったということによって明らかだろう。「わたし」が頻繁に映画を観たり、クラブに通ったりする---都市の文化的風俗的なものに積極的に触れるようになる---のは、Mの影響によるものだろう。ただ、もしかすると、そう書くことによって「わたしは佐々木敦だ」ということを隠しているのかもしれないが。)

(「わたし」がMと出会ったのは、「ツィゴイネルワイゼン」がニュープリントで公開され、フィネスの「エンドレス・サマー」が発売され、9・11が起こった2001年であり、9・11以降、二人の仲はぎくしゃくし始める。そして、Nと親しくなったのは、五反田団の「おやすまなさい」の初演があり、マイケル・ジャクソンが逮捕された2003年のおそらく11月頃である。だからMが「わたし」を非難するように、MとNとの交際期間が重複していることは考えにくい、と、一応は言える。しかしなぜ「わたし」は、わざわざ年次や時期を特定できるような事柄を手記に律儀に書き込むのか。問われてもいないアリバイを進んで口にすることこそ、アリバイが捏造されていることのしるしではないか、とも考えられる。)

ここで「書かれていないこと」には二種類ある。一つは、「わたし」によって意図的に隠匿されているもの。あるいは、そのことを書きたいがために書いているにもかかわらず、それを書くことに大きな抵抗が生じてどうしてもそれを迂回してしまう、というようなこと。つまり、それを「隠している」ことが意識されている。もう一つは、書いている「わたし」にさえ意識されてなくて、饒舌に書いてみることによって結果として生じる欠落によってはじめて、「わたし」にとっても事後的に発見されるような「書かれていない(隠された)なにか」。あるいはその隠されたものは、事後的にさえ発見されず、ある不在感、なにかが足りていないという感じ、あるいは、そこはかとなく漂う(書かれたものへの)不信感としてしか現れないような何かかもしれない。この小説は、前者を行うことを通じて、後者を暗示しているように思われる。

●もちろん、この小説にも「隠されてないもの」、あからさまに示されるものがあり、それは後悔、悔恨、後ろめたさという感情であり、そのような感情こそが「わたし」にこの「手記」を書かせているということだろう。しかし読み進めても、そのような感情が何に由来するのか、その原因となる出来事は何であるのかが、なかなか分かってこない。それが分からないのは、一面では「わたし」がそれを隠しているからだが、もう一面では「わたし」にもその原因が分からないからだろう。「わたし」は、なにかしら、決して許されることのない裏切りを犯した。これは確かなことであり、これについて自分を誤魔化すことはできない。しかし、それが一体どういうものなのか「わたし(の意識)」は十分には知らない。「わたし」は、自分でも知らない何かについて隠そうとし、同時に、自分でも知らない何かについて贖罪しなければならないと強く感じている。そのことの切迫性、その生々しさが、すべてが嘘かもしれない、他人の作品や他人事ばかりで埋め尽くされている「この手記」をリアルなものにしていると思う。

●終盤で、手記の書き手である「わたし」が、この「手記」は複数の対象に向けて書かれたのではなく、ただ「あなた」に向けて書かれているのであり、そしてその「あなた」とはつまり「(未来の)わたし」なのだと書き、しかしそれは「嘘」で、未来の「わたし」である「あなた」はこれを決して読まないだろうと書き、これを読んでいる「あなた」がいたとしても、それは「わたし」が届けようとした「あなた(未来のわたし)」とは別人である「あなた」だろうと書く。ここで未来のわたしである「あなた」とは、「わたし」の罪の所在を知った「わたし」であるとすれば、そのような「あなた=わたし」(わたし自身と完全に一致する「わたし」)が到来することは決してないという諦観を読みとることができるかもしれない。

《あるいは、あなたなどどこにも存在していないのかもしれない。わたしにはそれはわからないし、正直に言うならば、それはもう、まったくどうでもいいことなのだ。しかもこのことは、そもそもの始まりから決まっていたことだった。なぜならわたしが自分でそう決めたのだから。ただ、気づかないふりをしてきたのだ。そうでもしないと、自分で自分を騙さないと、これをやり遂げることは、到底できそうになかったから。》

●上の『半睡』の引用に、下の「無断と土」の部分を並べてみたら、どうだろうか。

《かように生物は、探索し知覚した情報から特定の世界とそこに存在する肉体(そこに接続した視覚や平衡感覚等)を構成=リプレイすることで、ようやくそこに降り立つ。二〇世紀末に荒川修作+マドリン・ギンズが〈建築する身体 Architectural Body〉という概念とともに行った議論の通り、その降り立ちが失敗した場合、肉体は激しい可能の洪水を前に、自らにとって不透明な肉体が自らの位置する座標から離れた場所で、しかも自らの肉体の感覚器官と一定程度連帯したかたちで多数存在しうるという圧を、強い質感とともに受ける。荒川+ギンズはそれを懐かしさとして認識し、また彼らの先行者であるマルセル・デュシャンはエロティシズムとして検討したが、多くの生物にとっては恐怖という情動が充てがわれることだろう。そこで恐怖とは、一方では感覚器官間のもつれ、誤認の物象化、知覚対象の唐突な変容の予感などとして経験され、また一方では、世界によるこの私の自由意志の収奪、(この私とは異なる場所に私があらわれるという意味での)分身の発見、(この私において異なる私が現れるという意味での)肉体の役者化=世界の上演化としてイメージされる。世界を単一に束ね得るような(主に視覚的な)宿が無く、不確かな(主に聴覚的な)ノイズばかりが由来も定まらず反響し、起こる世界の変容あるいは複数化。いずれの場合でも観測されるのは、表現主体における表現の生成過程を自らの自由意志のもとで測定しそこねた肉体が世界の側から強引に採掘する〈喩〉の型であり、感覚器官の連合をめぐる極めて叙情的なバグであり、多宇宙=可能世界そのものの歪な擬人化である。》