●づづき、三回目。「ここで、ここで」(柴崎友香)について。
二つ目の場面がはじまってすぐに、《ほんでイケアの食堂まで辿り着いて、なんも注文せんと窓際の席に座って廃人同然でしたよ》という「わたし」の台詞が書かれるので、一つ目の場面の出来事がこの直前にあったかのように読み進めてしまうのだが(注意深く読めば季節が違うと気づくはずだけど、印象としては場面の連続性の方が強い)、電車内での三人の会話をしばらく読み進めると、一つ目の場面から《一年半くらい経》つという台詞にぶつかり、ここでまた軽く戸惑う。あたかも時間的な連続性のなかにあるかのように書かれている事柄の隙間に、ふいに一年半という時間が押し込められる。これによって起こるのは、一つ目から二つ目への、時間の前方向への飛躍という感覚ではなく、《一年半くらい経》つという言葉によって、逆に、二つ目の場面から一つ目の出来事がぐーっと過去の方に押し下げられるような感じだろう。なまなましい現在時のように書かれて(読んで)いた一番目の出来事が、二番目の場面のこの部分を読むことで、(なまなましさを残しつつ)夢であったかのように遠のく感じなのだ。この「遠のき」の感覚によって、場面自体は現在として書かれていた一番目の出来事が、はじめから「記憶」であったかのように思えてくる(あるいは、読者にとっても「記憶」という位置に定位される、あるいは、「あらかじめ記憶としてあったもの」のようにリニアな時間軸から外れてゆく)。
さらに、この一年半という時間によって、二つ目の場面そのものについてもいろいろと考えさせられる。「わたし」は、一つ目の場面から一年半経つことでようやく、この経験をネタのように他人に喋ることが出来るようになったということなのか。それとも、この話はすでに「わたし」の持ちネタと化していて、いろいろな人に披露されているのだろうか、と。一つ目の経験で高いところが駄目になった「わたし」は、《なんか確かめないと気持ち悪》くなり《洗濯物干すのにベランダ出るたび下を覗かな気が済まへんようにな》っているということなのだが、一つ目の経験を他人に話すこともまた、これと同様の《怖さチェック》であり、疑似的経験を反復することでそれに慣れ、《もしかしたらだいじょうぶになってるかもしれん》となることが期待されているのかもしれない。
昨日も書いたけど、一つ目の場面で起きているのは、怖くない→怖いという断絶を含んだ時間の前への跳躍であり、二つ目の場面で起きているのは、過去←現在というような、時間の逆行的な押し戻しだと言える(過去を遠くへ押しやることで時間が前に進む)。この、前へと進む力と後ろへと押し戻す力の交錯によって、この二つの場面は相互に影響し合う拮抗した関係をつくっている。
●時間を押し戻す力は、過去を繰り返し「語る(反復する)」ことで時間の前向きの跳躍(断絶)によるショックをやわらげようとする行為によって生まれる。そして、このことが、三つ目の場面と深くかかわる。
イベント(二つ目の場面)の翌日、実家で遅くに目覚めた「わたし」は、《弟の妻》の買い物の間、《一歳八ヵ月》の姪をあずかることになる。子守りに慣れない「わたし」は、《押すと声を出して振動するエルモのぬいぐるみ》で姪を驚かせてしまい、驚いた姪はうしろに倒れて床で頭を打ってしまう。
《「あっ、ごめん、ごめん」
と駆け寄って起こそうとしたら、姪は仰向けにひっくりかえったままきょとんと天井を見上げていた。泣かないのかな、と思って一瞬待った。姪は、むくっと起き上がった。
「だいじょうぶ? 痛くない?」
わたしは聞いたが、姪はそれには答えず、きまじめな顔で立ち上がると三歩進み、テーブルの縁を指さして、言った。
「ここでここで」》
今、床で頭を打ってしまった姪は、かつても同じように、テーブルの縁で頭を打ったことがあるのを思い出し、それを「わたし」に告げる。今、感じた痛みが、過去に《ここでここで》と指差す場所で起きた別の痛みを想起させたのだ。二つの痛みが結びついた、あるいは、痛みが二つの場所を結びつけた。ここで面白いのは、「痛み」が、自分の頭で起こったのではなく、床やテーブルの縁で起こったと認識されている点だが、だが考えてみれば、「わたし」の恐怖も、「わたし」の内部で起こったというよりも「なみはや大橋」の頂上で(ここで、ここで)起こったのだし、そしてそれが、例えばベランダの「高さ」によって起こる別の恐怖と結びつけられる、ということではないか。
ここで姪に起こっていることは、今、起きた痛みが過去の痛みと結びついたということであり、それはつまり、過去に既に、未知の新たなものとして姪に刻みつけられた(跳躍-断絶としての)最初の「痛み」があったということだ。最初のそれは「痛み」として定位できないような、その時点では何が何だが分からないある強いショックであり、それと同様のショックが反復的に何度目かに現れた時に初めて、「これは、あの時のアレと一緒だ」ということで「痛み」として、「ここでここで」という痛みの場所として定位される。最初に、時間の前への跳躍としての定位できないショックがあり、後にそのショック-痛みが反復された時、それが過去へと遡行的に作用して、最初のショックを痛みへと変質させる。痛みへの定位は最初の大きなショックによって可能になるが、そのショックはショックが痛みとなることで緩和(あるいは隠蔽)される、つまり「遠のく」だろう。姪が泣くこともなく《きょとん》とし《きまじめな顔》をしているのは、記憶の関連付け-痛みという感覚の定位-オリジナルなショックの遠のきといった現象が、今まさに、自分の内部に起きていることの不思議さへの戸惑いが「痛さ」を上回っているからではないか。
それと同時に、姪には、その痛みの記憶を、あきらかに「わたし」に向かって伝えようという意図がある。
《右手で指差したまま、左手の親指を口にくわえて、わたしをじっと見た。姪の丸い目の白いところは、薄青く光っていた。
「ここで? 頭打った?」
指をくわえたまま、姪は三度頷いた。
「前に?」
さらに二度頷いた。》
姪にとって、記憶-出来事の関連付けが起こったという事の方が「痛み」を上回っている。おそらくこの時点では姪には「過去」は安定的にあるのではなく、現在起こっている事(ここでは痛み)の「強さ」が、過去の出来事を呼び寄せて関連づけ、その瞬間にだけ、「過去」と言うべき図像というか空間というか、そういう立体的なものが一瞬立ち上がるのではないだろうか。そういうものが自分のなかに出来てしまったと言う驚きと戸惑いを、誰かに伝えたい。伝えずにはいられない。
その手段として、姪には、以前にも「痛さ」が発生した場所を指差し、「ここで、ここで」と言ってまわるしかない。そして驚くべきことに、そういう事は通じるのだ。姪の「ここで」に付け加えて「わたし」の言った言葉、「頭打った」「前に」というのは、まさに今、姪の頭のなかで発生したことの補足的(創造的)説明なのではないか。頭を打つという出来事が痛みを通じて関係づけられ、それが過去(前)として組織化され、過去をつくりだしたねということが「わたし」から姪へと説明される。
おそらくこの時、「わたし」は姪の(頭のなか)一部となっているように思う。姪一人では、「ここで」と指差すだけの驚きと戸惑いとしてしか現れなかったものが、「わたし」の「頭打った?」「前に?」という的確な反応(補足的書き込み)によって、姪のなかで過去が一つの形象として像を結ぶに至ったのではないだろうか。おそらく人は、問いかけに対する他者の返答を自らのものとして取り込むことによって人になってゆく。だから「わたし」はここで、意図せずに、姪の過去の生成に加担してしまったのだ。「わたし」の動揺の本当の原因は、姪(の青白く光る眼差し)に「取り込まれてしまった」ということなのではないだろうか。
《そのあとについて行きながら、わたしは動揺していた。一歳八ヵ月の姪に、すでに過去の時間があって、彼女がそれを理解していることに。彼女が、過去のできごとをわたしに向かって説明しようとしていることに。自分は前にこことここで同じような経験をした、と。わたしはそれを聞いてしまった。一人で、姪から、知らされた。》
「わたし」は姪に「それ」を聞かされて(刻まれて)しまった、しかし同時にそれは、「わたし」は姪に「それ」を刻んで(わたしが取り込まれて)しまった、ということでもあるはずなのだ。
づづく。