●お知らせ。明日、7月24日づけの東京新聞夕刊に、ちひろ美術館でやっている「長新太の脳内地図」展の美術評が掲載される予定です。大抵の人が長新太という名前を知っていると思うし、大抵の人がその絵本を何冊かは目にしたことがあると思うのだけど、大抵の人がイメージしている長新太より、実際の長新太はずっとすごいということを思い知らされる展示だと思います。
●「わたし」「いま」という形式のもつ絶対性というものがある。わたしがまったくの別人と取り替えられたとしても、その瞬間からその別人こそが「わたし」なのだから、わたしは常にわたしでしかありえない。同様に、わたしが半年前に移動したとしても、わたしにとってはその時間こそが「いま」となるのだから、常に「いま」としてしか世界を経験できない。
経験の原器としての「わたし」「いま」。しかしこれは実はわたし以前の「わたし」であり、いま以前の「いま」であろう。どんなわたしもどんないまも記憶(過去)とともにあり、記憶に支えられる。「わたしがわたしである」と感じる時、すでに記憶と自意識が作動している。記憶と自意識のない、ある機構の作動そのものとしての「わたし」「いま」は、誰でもなく何時でもない。誰でもない「わたし」、何時でもない「いま」に記憶(内容)と自意識(自己言及)が充填されることで、わたしとなりいまとなる。自意識によって把握される、わたしの記憶、わたしの存在、わたしのいま、を、走らせている「支持体」としての「わたし」「いま」は、意識されている内容の外に、ただ、ある。つまり「意識できない」。
(ここで、「わたし」が支持体なのか、そうではなくフレーム――フレーム化という作用の結果――なのかという対立はあり得る。たとえばカントの統覚では「わたし」は支持体であることになり、ジェイムズの純粋経験論では「わたし」はフレーム化の結果ということになると思われる。)
で、ぼくが問題にしたいのは、この「わたし」「いま」がなぜいつも「一つ」でなければいけないのか、ということだ。いや違うか、原理上「わたし」「いま」が一つでなければならないというのはわかる。複数の「わたし」があったとしても、たんにわたしと誰かになるだけだから。だからせいぜい我々に望めるのは、一つの「わたし」「いま」の上に、複数の(内容としての)わたしやいまを走らせるにはどうすればいいのかを考えるということくらいだろう。
(とはいえ、わたしにおける「二つのわたし(わたし/あなた)」の作用という二人称の問題は、これとは別に興味があるが。)
たとえば、誰かの「経験」を完全にコピーし、別の人の脳において完全に再現できる装置があったとする。ぼくはピーマンが大好きだが、「ピーマンを嫌いな人の味覚でピーマンを食べる」という経験が可能になる。この時、自分がピーマンを好きなのか嫌いなのかわからなくなるのではないだろうか。ピーマン好きのわたしとして、ピーマン嫌いの味覚を味わうという時、前者がフレーム(メタレベル)となり後者が内容(オブジェクトレベル)となるのだが、この二つはどちらも固有のわたし(固有の経験)として同じくらいの強さをもつはずなので――ピーマンの不味さはそれを不味いと感じるわたしと不可分だと思われるので――そのような階層性に混乱が生じることは避けられないと思われる。
これは要するに、ピーマンが好きなわたしが「わたし」なのか、ピーマンが嫌いなわたしが「わたし」なのか、どちらかわからなくなるということではないだろうか。ピーマン好きの人の脳でピーマンが嫌いな人の味覚が再現されている時、その「経験」は、どちらのわたしに帰着することになるのだろうか。ここに、「経験(そして、わたし)のシュレーディンガーの猫」状態が生じるのではないだろうか。蓋をあけてみるまで、わたしが、ピーマン好きのわたしなのかピーマン嫌いのわたしなのか決定できない。「このわたし」の唯一性は揺らぐのではないか。
(ここで、ピーマン好きのわたしの方が優位――メタレベル――に立てるのは、装置を外すという行為が可能で、つまり経験を外部からコントロールできる能動性を確保しているからにすぎない。しかし「経験」そのものの次元では二つのわたしは区別できないので、装置を外してみたら、実はわたしはピーマンが嫌いで、ピーマン好きの人の経験を再現していたのだった、ということはあり得る。)