駒場アゴラ劇場で、神里雄大・作、演出『グァラニー〜時間がいっぱい』(「キレなかった14才りたーんず」)。会場の受付で、偶然、福永信さんとお会いした。こういうのを、凄い偶然と言うのか、この世界は狭い(どの世界?、演劇?、アート?、サブカル?、それら全てひっくるめても)と言うべきなのかは、微妙なところだ。「新潮」の福永論を読んでくれていて、面白かったと言ってもらえたので(少なくとも怒ってはいないようなので)、ちょっと安心した。
●いかにも小劇場的な演技の質、延々と続く自意識過剰な登場人物によるモノローグ、ここぞという場面で音楽を大きな音で流して盛り上げるような演出、等々は、ほくには普段はとても「鬱陶しい」と感じられて受け入れがたいものなのだが、この作品ではその、一つ一つとしては鬱陶しいはずのものが、常に複数、妙な具合で掛け合わされていることで鬱陶しさが相殺されて、それが何とも不思議な感覚だった。客席に向かって延々とつづく、自分の語りに自分でツッコミを入れたり、ありうべき批判を先回りして言い訳するような、過剰に武装された(つまり自意識過剰な)自分語りのモノローグは、しかし、それが結果としてどこへ行くのか分からない脱線のもととなり、「私の意識」「私の記憶」から逸脱してゆくという動きをつくりだしもする。出発点としては「自意識」だったものが、その過剰さによって、そこからこぼれ落ち、別の動きへ結びついて、ひろがってゆく。自己ツッコミは、しばしば言い訳-防衛として作用するものだと思うのだが、ここではその自己ツッコミが、モノローグに多方向へ向けた飛躍のきっかけを与えるものとして作用しているようだった。しかしそれだけでは、90年代の小説によくあった饒舌な文体とあまりかわらないとも言えるのだが、この作品がそこから一歩突き抜けていると感じられるのは、この作品が、パラグアイという今、ここ(日本、駒場-町田)から遠い場所への通路をもっているからだと思われた。
小田急線で、職場のある新宿とは逆方向に電車に乗ってしまい、今、町田の喫茶店にいて仕事をさぼっているという男の、自分の少年時代(黄金時代)でもある、パラグアイで生活していた時の想い出を語るモノローグ(途中、母親も出て来るが、この母親は、あくまで男の記憶のなかの母親だろう)だった場面が、一転して、その男と職場には内緒で同棲しているらしい同僚の女性が、「男が仕事をさぼっていること」について上司に言い訳するようなモノローグへと転換した時、この作品には大きな飛躍があらわれたように思う。この女性のモノローグが次第にテンションを上げてゆき、ついに、男と結婚してパラグアイへ移住するつもりであることを上司へと告白する時、それは隠していた秘密の告白(つまり、既に用意されていたものの開示)というよりも、いままで思って見みなかった、まさに「飛躍」が、いま、ここで行われたかのような感触になっているのだ。つまりここで、この女性の口から出た「パラグアイ」は、その前の男性の「記憶」としてあるパラグアイではなく、飛躍-接続の場所として、再び、そして新たなものとして見出された「パラグアイ」へと変質するのだ。
この後、基本的にモノローグであったこの作品は、パラグアイから帰国した日系三世女の子と、パラグアイのことを何もしらない、日本での新たなクラスメイトとの齟齬を含んだダイアローグへと発展する。最初の男性と女性が、日本→パラグアイへと飛躍したのと逆のベクトルとして、パラグアイ→日本への飛躍が対置される。これは時間的に同時代の出来事であり、この二つの飛躍は併置されたものだが、しかしこの二つのベクトルの併置が、この作品の時間を過去へとぐっと厚く広げることになる。つまり、最初の男女は、次の女の子の祖先の姿でもある、という風に。最初、男性の固有の記憶であり、男性にとってのこだわりであったものが、そこから逸脱し、時間的にも空間的にもひろがりのある、もっと広い場所へと散ってゆくのだ。
そしてこの作品のクライマックスは、この女の子とその母親とのダイアロークとなる。ここでの母と娘のやり取り、というか、母親の言葉は、まったく「ベタ」なものなのだが、そのベタな語りに、ベタに感動してしまったのだった。たんにベタなだけだと引いてしまうと思うのだが、最初の男性の、自己ツッコミや言い訳に満ちた屈折した自分語りが、作品の進行によって、あっけにとられる程、ベタでストレートでやけくそにポジティブな、何かを振り切ったような、母親の強い言葉へと「飛躍」するのだ。隣りに福永さんが座っていたので、恥ずかしいので泣かないように必死に抑制したのだが、目はちょっとウルウルしてしまっていた。
すべてが上手くいっているとは思えないし、密度としては疑問が残るようなところもあるけど、この作、演出家の次の作品も是非観てみたいと思えるようなものだった。
●この作品では、かなり頻繁に、俳優たちが舞台の上で靴を履いたり脱いだりする。ぼくは演劇をそんなに多く観ているわけではないが、こんなに頻繁に、舞台上の俳優が靴を履いたり脱いだりするのを、他ではちょっと観たことがない。そこも面白かった。あと、芝居がはじまる前の時間に、舞台の袖で、パラグアイの舞踏の衣装を着た女優たちが待機する姿が、ライトアップされて客席からも見えるようになっているのだが、その時に見られる、レースやドレープの過剰な真っ白な衣装を着た女優たちが輪になって、舞台の隅でぼわっと照明で照らされているイメージが、この作品にとっての「黄金時代」としてのパラグアイの記憶をあらわしているようにも感じられた。
●22日の日記を書いたのは23日の早朝で、その日記にぼくは、普段ほとんど使うことのない「猥褻」「卑猥」という言葉を、ちょっとしたためらいを感じながらも微妙なニュアンスで書き込んだのだが、その日記をアップした後にテレビをつけると、そこには「公然わいせつ」という言葉がテロップで出ていて、ついいましがたパソコンに向かって打ち込んだ言葉が、何かしら混線のようなものによって、テレビの方へと洩れ出てしまったかのような錯覚に陥り、そういう言葉使いをしたことを少し後悔した。それにしても、もう既に寒くはない春の真夜中に、誰もいない公園で全裸になるのは、さぞ気持ちのいいことだろうと思った。