●池袋のシアターグリーンで、岡崎藝術座『古いクーラー』(作・演出/神里雄大)。前半はすごく面白かった。
特にクーラー2の若いサラリーマンの話をやった女性のパートがすばらしかった(リーフレットで確かめてみると菊川恵里佳という人らしい)。今の演劇っていうのは、こんなすごいところまで来ているのかと感じた。いわゆる「戯曲」を「上演」するというのとはまったく違っていて、テキストのなかにパフォーマンスがあり、パフォーマンスの中にテキストがあるという感じ。混じり合っているというよりも、ぶつかりあって、それによって互いを変形させ合っている、というのか。テキスト自身の分裂と飛躍を孕んだ展開と、パフォーマンスの展開という二本の線が絡まり合い、あるいは、テキストの「展開」それ自身とテキストが不可避的に持つ「言葉の意味」と、パフォーマンスの「展開」そのものと人の身体が持つ「身振りの意味」という四本の線が、同調したり反発したり裏切り合ったり、折り重なったりずれ込んだりする。あきらかに事前に「書かれた」ものとしてのテキストがあることと、しかし、それが実際にある身体によって口にされることの間にある、非常に複雑な屈折や距離。テキストに孕まれた、場面や主格の非連続性(流動性)と、それを「その場」で演じているパフォーマーの身体が一つであることとの絡み合い(絡み合わなさ)が、どこでもない、ありえない時空を、ありえない身体を、生み出すかのようだった。このパートだけでも、この作品を観ることができて本当によかったと思った。
でも、後半は、ぼくにはちょっと厳しかった。クーラー4のマケル君の母のエピソードになると、テキストそのものがわかりやすい(現代的な)寓意を持ち、パフォーマンスも、ベタにそれを上演するという形になる。さらに、クーラー6がクーラーのかぶりものと掛け合いする場面では、「古いクーラー」という言葉に明確に(分かり易過ぎる)隠喩としての機能が発生してしまう。パフォーマンスも、笑えないコントみたいな感じになる。クーラー7のラーメンの話になると、単純にテキストの次元で、その話のどこが面白いのかぼくにはよく分からなかった。
いや、意図的に「あえてベタで押す」という指向性があるのは分かるし、ベタなメッセージみたいな部分が全面に出てくること(それがゴロッとあること)こそがこの作品のオリジナリティなのだということは分かる。あえて、「寒い場面」でこれでもかと押すことで、客を引かせるのを通り越して押し込んでやろうというくらいのテンションがみなぎっているのも感じられた(古いクーラー=寒い人たち、の話であるわけだし)。そのテンションが半端ではないことには、すげーな、と感じもする。そして、ベタな部分まで含めたこの感じこそがきっと、神里雄大という作家のもつ独自の感触なのだろうとも思う。しかし、そのテンションの高さ、押しの強さも、ずっと押してばっかりいると単調に感じられてしまうように思う。
おそらく、これはテキストの問題であるようにぼくには思われた。前半に比べて、後半はテキストの展開が単調になってしまうから、パフォーマンスのテンションの高さにテキストが拮抗できてなくて、単調に感じられてしまうのではないだろうか。意図的に「寒い」場面で押しまくるのだとしても、あるいはベタにメッセージを押し出すにしても、テキストの次元でもう一工夫あると(一工夫というか、展開にもう少し複雑さがあれば)、「寒さの凄味」が全然違ってくるのではないか。テキストがやや弱いというところが、すごく勿体ない感じがした。
とはいえ、この作品の内包するポテンシャルはすごいものがあると感じた。時間的、金銭的な余裕の無さもあって、演劇をそんなに観ているわけではないし、興味のあるカンパニーの作品さえちゃんと追えてはいないのだけど、いま、演劇ですごく面白いことが起こっているのを感じるし、それは画家としてのぼくにとっても刺激的なものだ。