●レンタルしてきた『パシフィック・リム』のディスクを再生したらいきなり宇宙空間で視点がぐるぐる動くすごい映像があらわれて、おーっ、さすがにすげえなと思ったら、それは『ゼロ・グラビティ』の予告編の映像だった。『パシフィック・リム』は、ぼくにはまったく面白くなかった。確かに絵の作り込みはすごいし、クライマックスの場面の充実などは認めるけど(死んだと思った怪獣の体内から子供の怪獣が出てくるところは面白かった、怪獣がクローン技術で生産されているという設定からすると矛盾しているようにも思うのだけど、そんなことはどうでもいいと思う)、前半の一時間などは、なんと不首尾で退屈な映画なんだろうかとずっと思って観ていた。全体を通しても、物語としてつまらなすぎるように思った。
思ったのは、ナードのための物語をナードがナード的に語るのではきっとアメリカでは商売ならないと思われていて、だから、もともとナードのための物語であるはずのものが、「アメフト部」的な価値観で再構成されることになり、その過程で最初にあった重要なものが失われてしまうのではないか、ということだった。喩えとして適切かどうかはわからないけど、「エヴァ」のシンジがバスケ部でマッチョでコミュ力のあるリア充だったら、作品は台無しになる。
(例えば、主人公の、びっくりするくらいの特徴のなさ、菊地凛子の、びっくりするくらいの「東洋の女性」という紋切り型へのハマり具合、ナードな博士たちの造形のつまらなさ……。この作品の人物造形やキャラ配置のつまらなさはかなりのものだ。別に、そんなに複雑な話や設定にする必要はないとは思うけど、もし、怪獣オタクの博士をもうちょっとかっこいい感じにして、彼を主人公にして、彼に怪獣と戦わせるとするならば、それだけで作品の感触は大きく変わってくるように思うのだけど。『マトリックス』とかはそういう形になっていると思う。)
全体としてまず、誰も文句は言わないけど面白くもない(一応、段取りは踏んで説明責任だけは果たしています、みたいな)ある安定した形が確保された上で、その安定を崩さない限りで、細部への過剰なこだわりや熱量がそこに投入される。しかし、「安定が確保される限りで許されるこだわりの細部」に魂が宿るとはぼくには思えない。「怪獣映画」へのマニアックな思い入れがある人ならば(その「安定した形」こそがジャンル的お約束――あるいはジャンル愛――であり、それこそが「泣ける」のだ、というのであれば)、また違った感じ方があるのかもしれないけど。
いや、文句を言うのは簡単だけど、実際に(細部の作り込みや完成度で妥協しないために)大きな予算が必要な映画をつくろうとすれば、こうなってしまうのはある程度は仕方がないことなのかもしれない。でも、このような映画を観ると例えばスピルバーグのような人の偉大さが逆に見えてくるようにも思う。スピルバーグが偉いのは、ハリウッドという巨大なビジネスの内部にいてもなお、「アメフト部」的な価値観の物語には決して譲歩することなく、自らがナードであることを貫き通して(少なくとも作品の次元では)、それでちゃんと生きつづけているところではないか、と。
●空間の使い方とかも単調で、例えばポン・ジュノの『グエムル』みたいな、怪獣が動くことで空間そのものがダイナミックに展開して躍動するみたいな感じがあまりないとも思った。絵としては充実していても、運動や展開としては単調という感じ。死んだ怪獣の体から子供の怪獣が出てくるところと、いきなり怪獣から羽が生えて空に飛んでゆくところだけは、空間的な展開の面白さが少しあると思ったけど。