●『インヒアレント・ヴァイス』(ポール・トーマス・アンダーソン)をブルーレイで観た。映画を観てこんなに「楽しい」と思ったのは久しぶりだというくらい楽しかった。主演のホアキン・フェニックス目黒祐樹にしか見えなかった。
ピンチョンの小説は読んでいないのだけど、物語としては典型的なハードボイルド(探偵による一人称物語)で、この形式は、主人公が他者からの依頼によって事件にかかわり、だが捜査という域を超えて事件に抜き差しならなく巻き込まれてしまい、それら数々の事件の背後には表面からはわからない深くて巨大な別の層(秘密の繋がり)があることが徐々に露呈してゆく、というパターンをもち、その外枠さえ守っていれば、中身や構造の自由度が高く、かなり前衛的、実験的なことをしてもふつうに「面白く読める」ものになることから、一時(九十年代くらい)、世界中の多くの作家がこのパターンを利用して小説を書いたのだけど、あまりに多くの作家が同じパターンを使ったので急速に陳腐にみえるようになってしまった、といえるものだと思う。おそらくピンチョンは、陳腐化した形式を2000年代になってあえて使ったということなのだろう。
(小説としてはチャンドラーやハメットにルーツがあり、映画としては『三つ数えろ』や『ロング・グッドバイ』にルーツがある、どちらにしてもこの手のものには「やりつくされた感」をぼくはもっていのだが、さすがにピンチョン+PTAという感じで、とても新鮮で楽しかった。)
基本として、主人公がふらふらしているうちに、世界の様々な細部に突き当たり、そしてその細部たちの背後には隠された陰謀(繋がり)が広がっていたというパターンで、そこから謎や陰謀を消してしまうと、世界の不透明な細部とひたすら向き合う(それらを受け止める)ロードムービーのような形式になる(コッポラが『ハメット』の演出をヴェンダースに依頼したのも、ハードボイルドとロードムービーとの共通性からではないか)。そして、謎や陰謀の気配は濃厚にあるものの、それがいつまでたっても明確なネットワークを形作らず、消失点をもたず、気配ばかりが漂っているというのが『ツイン・ピークス』だと言える。このような形式では、背後に隠されている謎(ネットワーク)をそれなりに魅力的、あるいは整合的に仕掛けておけば、作品そのものの構造はかなり緩くてもよく、自由度が高くなる。つまり、背景にある謎(設定)が「世界の不透明な細部の突出」の正当性を保証するもの(言い訳)となるので、あとはどれだけ「面白い細部」をつくれるのかだけに集中できる、と言える。
(『マグノリア』のような構造優先の映画とは違う感じになる。たとえば「インヒアレント…」では「語り手」の位置に謎の女性がいて、主人公と元カノとの関係にも第三の人物としていろいろ絡んでいるようだ。おそらく原作小説では、この語り手が作品の構造に複雑さを生じさせているのだろうけど、映画では、ナレーション係だと思っていれば十分な感じで――主人公の一人称的な物語としての側面の方が強くて――構造的な複雑さが生じてはいない。)
かつてつき合っていた非常に魅力的な女性が唐突に現れ、助けを求め、謎めいたほのめかしを残して去って行く。これだけでもう、世界全体が謎の気配に覆われることになる。あとはひたすら、どれだけ面白い場面、面白い細部をつくれるのかが勝負となる。この作品では、背景にあるネットワーク(人間関係や陰謀)は複雑だが、それを語る「物語の語り方」や「展開」はすごく緩い。あるいは、人間関係(事情)は複雑だが、作品的な意味、構造的な意味での、場面と場面との関連性は緩い。そして「語り」が緩いかわりに細部が濃い(構造が緩いから、細部の造形の自由度が高くなる)。だからこの映画で重要なのは、表面に突出するものとしての「細部」と、背後に隠されたものとしての「細部同士のネットワーク」であって、「物語(展開)」の説得力ではないように思う。物語的な説得力を代補するように、謎による吸引力が働いている。
(とはいえ、この映画は案外「物語」がちゃんとわかるようにつくってある。最初の三分の二くらいは、「ツイン・ピークス」を観るように細部の面白さだけで「楽しい」とわくわくして観るのだが、最後の三分の一で、複雑な人物関係や事件の顛末が分かり、事件がちゃんと整合的に収束するようにできている。だがそれは、予想外の展開や意外な真実を告げられて「おおーっ」と驚くというのではなく、「こう見えても辻褄はちゃんと合うようにつくってます」ということが示されるという感じで、物語としての面白さという感じではない。だから最後の三分の一は、それ以前に比べると「楽しさ」の度合いは多少落ちる。)
登場するあらゆる人物の、顔、表情、声、仕草、たたずまい、服装などが面白いし、様々な人物と主人公との掛け合い、それが行われる場所(場面)が面白いので、それが誰であるのか、物語のなかでどのような役割や位置を占めているのかを、あまり気にせずにその都度ただ「楽しい」と思って観ることができる(あー、ここでこういう顔の人が出てくるのか、というレベルだけで十分に面白い)。特に序盤は、次々と現れる誰だか分からない(物語上の位置づけが予測できない)胡散臭そうな人物たちの造形のいちいちに感心させられる。
この映画だけでなく、一部のアメリカ映画(リンチ、ウェス・アンダーソン、あまり観ていないけどソフィア・コッポラとかもそうかも)における、人物造形というか、人物描写には不思議な面白さ、リアリティがある。それはリアルな人間像というよりは多分に人工的であるけど、アニメのキャラともかなり違って、とても独自なものだ。
●とても面白かったのだが、ただ、このような作品は映画よりもテレビシリーズなどの方が適当ではないかという気もする。二時間半という上映時間は映画としては長めだけど、この作品としては短すぎる(あるいは中途半端である)ように思えた。こういう作品は、冗長で、無駄な寄り道が多くある方が面白いのではないか、と。
●例えば『進撃の巨人』は確かにとてもよく練られた優れた物語だと思うのだけど、あまりにシリアスで、あまりに現実の日本の姿に似過ぎているので、読んでいるとひたすら辛くなってしまう。「インヒアレント…」もまた、描かれる状況としてはかなりシリアスなもの(ヒッピー的なものが敗北し、嫌な権力の支配がどんどん広く強くなってゆく状況が背景にある)なのにもかかわらず、観ていてとても楽しくなってくる。これは重要なことではないか。