●『結び目』(小沼雄一)をDVDで。これはとても面白かった。この映画でなされていることはおそらくとてもシンプルなことだ。そしてそのシンプルさを支えているのが主題の存在ではないか。主題というのはつまり、映画が映画であるという事実の外にあるもののことだ。そしておそらく、この作品での主題は、現実的なものというより、非常に抽象的な次元にある。
例えば、この作品には痴呆状態になった老人(夫の父)が登場する。しかし、この人物は現実を反映しているのではないし、現実上の老人介護に関する問題を提示しているのでもないと思う。彼の存在はきわめて抽象的なもので、その抽象性は主題の要請によっている。彼が、抽象的で、かつ主題に深くかかわっていることで、たんに作劇上である一定の役割を担う役柄であることを超える。そうでなければ、たんに物語を収束させるための方便としてボケ老人を都合良く、恣意的に使用した、ということになってしまう。
あるいは、この映画では人物間でかくしごとが成立しない。夫は妻の過去をなんとなく知っているし、クリーニング屋の妻も、夫の過去を知っている。だからこそ、いやがらせの主も、なんとなく分かってしまう。様々なことが、なんとなく察せられてしまう。互いに互いの事情を知っているということは、地方の小さな街の現実を写しているというよりも(そういう側面がまったくないとは言えないけど)、この映画の主題を構成するものの一部としてあるように思える。
だからこの映画は、いわゆる(現実的な真実らしさという最も浅い意味での)リアリズムには依っていない。こういうことはいかにもありそうだとか、この人の気持ちが実感を持って感じられるとか、そんなことあり得ないだろうとか、そういうことが問題なのではない。人物は、あくまで具体的な人物であると同時に、主題を構成する一つの形象としてある。あるいは、主題のなかのしかるべき位置を担う存在としてある。そうでなければ、クリーニング屋の主人のような人物には、何のリアリティーもないことになってしまう(実際、このような人物を映画の登場人物として成立させるのはきわめて困難だったのではないか)。
とはいえ、映画は常に具体的なものを捉える。具体的な光を、風景を、俳優を、その動きや声を捉える。そのような豊かさこそが、映画が抽象的なものとなることを困難にするのではないか。映画が抽象的なものとしてあろうとすると、大抵は、薄っぺらになったり、嘘くさくなったりする(その「薄さ」そのものが面白かったり、リアルであったりすることもあるけど)。この映画では、具体的なものを捉える映画として、あくまで具体的なものを通して、抽象性へと至ろうとしていると思う。映画が、あくまで映画として、映画の外にある主題へと至るために、抽象化が必要とされている、と言うべきか。
具体的なものを通して抽象的なものへと至るために、一つ一つの具体的な細部に最大の配慮が払われる。シンプルさは、雑多な細部の繊細で複雑な操作によってはじめて実現するのだと思った。だから、抽象的であるということは、象徴的な表現をするということとは真逆なものとしてある。
このような物語で、二人の人物の距離が縮まったり、反発したりする様を描くための映画的な手法や表現には多彩なバリエーションがあるのだが、しかし、一旦近づいてしまうと(つまり、やってしまうと)、その後どうするのかのパターンは極めて限られており、とたんに退屈になってしまう危険が生じる。映画が(あるいは、そもそも物語というものが)得意とするのは、距離の伸縮と、その一瞬の交錯、あるいは断絶であって、関係した後どうするのか、ではない。しかしこの映画では、その後どうなるのか、こそが問われるように思う。つまりそこにこそ、この映画の主題がかかっている。この映画がメロドラマではなく(メロドラマが悪いと言っているのではない)、抽象的な主題をもった映画であるということは、そういうことでもある。つまり、映画の展開が継起的な物語としてあるのではなく、ある主題を構成し、追求するものとしてある。
抽象的な主題という言い方はそれこそ抽象的すぎて、何のことか良く分からないかもしれない。例えて言えば、『結び目』の抽象性とは、ドライヤーの『奇跡』が抽象的であり、パゾリー二の『テオレマ』が抽象的である、という意味での抽象性だと思う。だからここで主題と言ったのは、ドゥルーズが「シネマ2」で、パゾリー二の『ソドムの市』を定理的と言い、『テオレマ』を問題的と言った時の、「問題」ということに近いのかもしれない。