●ずっと調子が悪くて、機械のご機嫌をうかがうように使ってきたDVDプレイヤーがとうとう、もう、どうなだめてもすかしても動かなくなって、でも、今DVDが見られなくなるのは色々と支障があるので、ツタヤで2980円で売っているコンパクトなプレイヤーを買ってきて、作動を試すために『光る眼』(ション・カーペンター)のソフトをかけてみた。
●アメリカ映画の抽象性ということを考えながら観た。例えば、この映画で出てくるような外界から閉ざされたような小さな街というのは実際にアメリカにはあるのだろうけど、とはいえ、この映画の「街」はそのようなアメリカのローカルな何かを表現しているわけではなく、もっと抽象的な「街-空間」だろう。そこに、不自然なほどに端正な容姿のクリストファー・リープが演じる医者がいる。彼の抽象性は、その端正さだけにあるのではなく、どの場面でもゆるぎなくほぼ同じ顔をしている点にもある。彼は、感覚的(視覚・聴覚的)に感受出来る抽象記号としての「人物」であるようだ。ある境界から向こうに行くと昏睡状態になってしまうという物語的な要素を、アスファルトの道路にペンキで白線を引くという行為で表現することからも、この映画が、実際にあるアメリカの風景のなかで撮られながら、『ドッグヴィル』と変わらないような空間構成によって出来ていることを示す。
●感覚や細部が、物語や継起的展開という重力を突き破って突出するというのでもなく、感覚や細部が縮減されて全体(図式や物語や意味)に奉仕するというのでもないこと。抽象性が実現するのは、複数の感覚、複数の細部が「そのまま」で、ある組み合わせや関係をつくるというところにあるのではないか。細部を切り捨てるのでなく、細部に拘泥するのでもなく、細部と細部との関係というある抽象的な手触りがたちあがる。感覚の具体性からかたちづくられる抽象性(具体性を縮減し、一般化して抽象化するのではなくて)。だからそれには、ただ感じるだけでは足りない。感覚と感覚とがある関係をもって結びつく、その関係の感触を感知しなければならない。あるいは、観る者が自分の頭のなかで、その関係を自ら組み立てる必要がある。その時それは、感覚や感情そのものではないし、物語や意味でもない。関係、配置、ネットワーク、という風に言葉にしてしまえば安易にもっともらしくなってしまうけど。
感覚と感覚との(一定の密度や手触りをともなう)関係は、それ自身として固有性をもちながら、まったく別の感覚と感覚との関係との間に共鳴がはしり抜けることがある。たんに関係のもつ密度や強度が問題なのではなく、このことこそが重要であろう。仮にそれをアナロジーと呼びたい。例えばメタファーは、ある複雑な関係の総体を、厚みと深さをもった一つの形象によってまるごと捉え、捕まえる。だからメタファーは意味であり、答えであろう。だがそうではなく、ある関係の総体から、(本来無関係な)別の関係の総体へと何かが走り抜ける。それによってその関係の総体に動きが生じる。配置が移動する。だからそれは、答えとか理解とかではなく、刺激であろう。その刺激によってその関係が動くことで、さらに刺激が別の(本来無関係な)関係へと走り抜けてゆく。
●『光る眼』という、感覚記号を用いた抽象的な構築物は、そのようにして観る者を刺激する。つまり、面白い。