●原作の小説は読んでないのだけど、映画『アヒルと鴨のコインロッカー』はちょっと面白いと思っていて、それは、リンチの『ロスト・ハイウェイ』がやったようなことを、理詰めで成立させていると思うからだ。理詰めで、というのは、この映画は、すべての細部が伏線になっているようなリジッドな形式で出来ているということ。
ロスト・ハイウェイ』と書いた時点でネタバレになってしまっているのだけど、つまりこの映画をぼくは、ある人が別人になる過程の話だと思っていて、そしてその過程が、理詰めで論理的に描きだされている、と思っている。
●この映画に関しては、採録シナリオみたいに、すべての場面を書き出して、個々の出来事やセリフの物語上の機能と、それが別のどの出来事と、どのような関係(あくまで物語上の関係だけど)になっているのかを、全部調べたことがある。
それで分かったのは、すべての細部が伏線になっているという事の意味は、(1)すべての細部が、別のいくつかの細部と、(曖昧さのない)ほぼ一意的に確定できる関係をもっていること、(2)しかし、その一意的な関係の全体的配置は、最後の段階まで確定できず、観客が時間的展開のなかで、その都度様々な謎と予測をもち、それを少しずつ変化させるように導いていること、(3)そして、時間のなかで緩やかに変化する謎や観客による予測が、急激に揺さぶられる(裏をかかれる・ミスリードだと分かる)予想外の展開が途中に何度か仕掛けられていること、という三つくらいのことであるようだと思った。
まあ、当たり前と言えば、当たり前なのだけど。
あと、作中で最も大きなどんでん返しが、必ずしも最後にくる必要はないということ。この映画では、もっとも大きい驚きは中盤に置かれていて、終盤は、その「驚き」を動力として、前半にばら撒かれた様々な細部や謎が、細部たちの一意的な関係が織りなすネットワークへと一気に収束してゆくという展開になっていた。つまり、驚きは中間地点にあって、最後にあるのは、「こんなに見事に納まったのか」という「感心する」に近い感覚だと言える(正直に言えば、ぼくが面白いと思ったのは、「驚き」の地点までなのだけど)。
●わざわざそんな分析をしたのは、この映画が好きだったからというより、分析し易そうだったからというのも大きい。全ての細部が伏線になっている、という感触は、すべての場面の意味が(曖昧なところなく)解読できるだろうと言う予測がたつということだ。実際にやってみると、見事に、すべての細部(要素)に、他の細部との関係において一意的に決定できる意味と機能があり、要するに、物語の構造に関係のない(細部として自律した)細部、あるいは、意味や機能が曖昧に(多義的に)開かれている細部は一つもなかった。
(場面・出来事・セリフなどを書き出してゆく時、その位置づけや機能について迷うところは一ヵ所もなかった。しかしそれは、分かり易くはあっても退屈ということではなく、なるぼと、なるほど、と何度も感心させられるものだった。一個一個の操作はそれほど複雑ではないし、驚くべきものというほどのこともないのだが、それらをこつこつ積み上げることで、かなり複雑な構造をつくっているということだ。)
●すべての細部が伏線になっているということは、事件があって、それが解決されるということとは違う。世界そのものが、細部のネットワークとなっているということで、その伏線をすべて回収するというとは、そのネットワークを閉じたものにするということだろう。それはおそらく、世界を論理的に完結させるということだろう。物語的な納得としての事件解決ではなく、作品が論理として閉じられるということだと思う。
●この映画をわざわざ細かく分析してみようと思ったもう一つは、ぼくには、この映画によって語られる「物語」が(別人になる、というところ以外は)ちっとも面白いとは思えなくて、しかし、なのに、この映画自体を面白いと感じるとしたら、それはおそらくこの映画の論理性を面白く感じているのだろうと思ったからだ。その論理の具体的な形や感触を知るためには、自分で分析してみないと分からない。そして、それをある程度味わえたと思う。