⚫︎巣鴨のRYOZAN PARKで「保坂和志の小説的思考塾vol.14」。以下は話を聞きながら考えたことで、保坂さんの発言の要約や紹介ではありません。
⚫︎「世界五分前仮説」について。「世界五分前仮説」における論争的な側面を、現代的に縮約して通俗化した言葉が「それってあなたの感想ですよね」なのではないかと思う。この言葉に込められているのは、エビデンスのない「感想(気持ち)」になど意味がないという感情への軽視と同時に、「あなた」という存在になど大した意味はないという「あなた」への軽視が込められている。だからこの言葉は、権威のある偉そうな人がうざい説教をたれているような時には、カウンターとして鋭い効果を持つが(その意味ではすごく冴えていると思う)、水平的で対話的な場面で用いられると、論争的に相手を打ち負かして貶め、一方的に「勝ち」のポジションを取ろうとする傲慢な言葉となる。
それは冗談として、「世界五分前仮説」は論理に対する懐疑論であり、どんなに論理を精密に積み重ねたとしても、最後のところで「世界五分前仮説」によってひっくり返せるよ、という無敵ポジションだという意味では論争的だが、それはつまり、論理によって世界を解明することの不可能性を示していて、論理空間に開いた「穴(外部)」のような意味もあると思う。「世界五分前仮説」は、論理的に示された論理の不可能性の一つで、論理的に示された論理の外部だと捉えると、ちょっと見え方が変わるようにも思う。
このような、論理的に示された論理の外部性(不可能性)を示す懐疑論は、おそらく二十世紀の初頭にすごく流行った。論理を使って論理を自壊させる、循環的、自己回帰的、迷宮的構造に惹かれる人は、論争的というよりむしろ自閉的(自己充足的)な傾向の人であるように思われる。ウィトゲンシュタインはおそらくそういう人で、しかし、そこから始まった分析哲学はそうではなく、論争的になったということではないかと思う。
懐疑論への批判は、懐疑論的な外部(論理の不可能性)とは「別の外部」を示すことによってなされると思う。たとえば、マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」と言うとき、それは、「世界」という「すべてを包摂するもの」は存在しないということで、つまり「全体」は存在しないということを言っている。「存在する」ということは、対象とそれを存在させる意味の場がセットになって(図と地のように)成り立っていて、つまり「世界」という「全体」が存在するとしたら、その「全体」を存在させるための意味の場が世界(全体)の外にあることになり、よって「世界」は「すべて(全体)」ではないことになる。ただここで重要なのは、これがメタレベルの無限後退とは違っているということだ。「世界」が存在するためには、その外に世界を存在させる意味の場があるということと、「ユニコーン」が存在するためには、それを存在させる神話という意味の場が必要だということが、並立的で等価なものとしてある。対象と意味の場との関係は階層的にではなく並立的、あるいはフラクタル的になっている。
世界五分前仮説を論理的に反駁することは決してできないという「懐疑論的な外部」と、「すべて」の外にも常に外部がある(全体はない)という「存在論的な世界の外部」とは、同じ「外部」でもその様態が異なる。「宇宙」は物理学という意味の場のなかに存在し、そこには「ユニコーン」は存在しないが、神話という意味の場のなかには「ユニコーン」が存在する。同様に、「世界五分前仮説」は哲学や論理学という意味の場には存在するが、おそらく物理学という意味の場には存在しない(成り立たない)。「世界五分前仮説」は論理空間の中には存在できるが、意味の場をズラすことで意味を失う。「世界五分前説」が反駁不可能なのは、ただ「論理空間」という意味の場においてだけである。もちろん、「世界五分前仮説」だけではなく、あらゆる存在はどれも、「すべての意味の場」を貫いて存在することができるということがない。このような「外部の在り方」そのものが「世界五分前仮説」を反駁する、と言えるのではないか。
(「床屋のパラドックス」も、おそらく論理的、数学的には意味があることなのだろう。しかし、それを自然言語で記述した途端、「意味の場」がズレるので、おかしな話となるのだろうと思う。)
⚫︎保坂さんが、「世界五分前仮説」には、科学が、さまざまな仮説が立てられては、それが別の仮設によって乗り越えられる、という繰り返しによって成立しているという、そのような感覚がない、と言っていたことで思い出したこと。今やもう、生成AIの流行によって過去のものとなってしまった感があるアルファ碁について。アルファ碁は、自分自身との対戦を繰り返すことでバージョンアップして強くなっていくのだが、その古いバージョンもすべて保存してあるという。なぜかというと、自分自身とだけ戦っていると、バージョンアップしているつもりで実は強くなっていなかったり(過剰な最適化が起きてしまっていたり)、大きな弱点があっても見落とされたままになってしまうということがチェックできなくなる。なので、時々、他者としての「(今よりも弱いはずの)過去の自分」と対戦させる必要があるのだそうだ。AIでさえ、バージョンアップされた最新版だけあればいいわけではなく、時間軸による多様性を(尊重することを)必要とする。アルファ碁を開発し始めた、最初期からの歴史の総体の積み重ねがアルファ碁である。
(この話を聞いたときに、柄谷行人の言う、純粋贈与としての「祖先からの/祖先への愛」という概念とつなげて考えられないだろうかと思った。)
⚫︎哲学などにおける重要な概念は、それはこういうことだと事前に定義できるものではなく、その語が持つ雰囲気や匂いのようなものが、その人の経験や記憶や感覚を刺激し、その人の全存在を駆り立てるための呼水のように作用するもので、たとえば「愛」というテーマで何かを書こうと思い立った時には、「愛」という語が具体的に何を指しているのか明確ではなく、ただ、その語のもつ匂いがぼんやりとした行先の指標のようなものとなってその人の思考を刺激して、掻き立て、導き、それによって書かれたものを確認することで、その時に自分が「愛」という言葉にどんな意味を見ようとしていたのかということを事後的に知る。たとえ「世界は事実の総体である。事実の総体とは、成立している事柄のすべてである」というように、「世界」という語の明確な定義から始められる論考でさえ、おそらくそのようにして書かれている。最初に定義がしっかりしていないと議論にならないというのは嘘で、それは事後的に整合性を整えた後から時間を逆向きに見ているのだと思われる。
それは「読む」ときもそうで、たとえば「世界」という概念が出てきても、自分がその語に何も刺激されるものがない場合、「全体」とか「自然」とか「自分の外にあるすべて」とか、それを受け取るそれぞれの人が、自分に一番フィットする、あるいは自分を一番刺激するような匂いのするイメージに変換して読んでいかないと、自分自身のこととして、腑に落ちるようには理解できないと、保坂さんは言う。それによって、多少、誤解や歪曲を含んでしまうとしても、そうするべきだ、と。これにかんしては抵抗を感じる人も、保坂さん自身が小説は字義に通り読めと言っていることと矛盾すると思う人もいるかもしれないが、とても重要なことであるように思う。これによって、他人の作品を「自分の生」として生きることが可能になる。グレアム・ハーマンやマルクス・ガブリエルが、観客自身の「存在」が芸術作品の一部であり、観客の存在がそこに乗っかることで芸術作品は初めて完成すると言っていることとも繋がると思う。
⚫︎私の境界が不確定である。私は、受動的に外部からもたらされるのか、能動的主体として外部に働きかけるのか決定できないからこそ、「内側にいる私」は自由意志を主張できる。私は外部の存在があるが故に存在できるが、その外部を知覚できないが故に作家性を主張できる。郡司ペギオ幸夫の本から引用して保坂さんが読み上げた言葉だが、これはあまりにも見事な表現で、ちょっと見事すぎるとさえ思う。
⚫︎「世界五分前仮説」を反駁できないという「証明のできなさ」と、「わたしは、わたしがレプリカントではないと証明できない」という『ブレードランナー』的(ディック的)な「証明のできなさ」はどう違うのか。両者は、論理(意識)は、論理(意識)の根源的由来を自らの力によって知ることができないという不安を共有している(懐疑論)。ただ、「世界五秒前仮説」は、論理の問題であり、世界の具体的な細部や密度を捨象しても何の問題も無いが、ディック的な「証明のできなさ」には個別の記憶の重さと切り離せない。どのような記憶であっても原理的に同等に疑い得るとしても、「この記憶」が疑わしいことと「あの記憶」が疑わしいことでは重みが違う。いや、本当にこれでいいのだろうか ? ちょっと疑わしい感じがする。
⚫︎保坂さんがプルーストとの話をしているのを聞いて、(ぼくは最後まで読んでいない)ずっと前に観たラウル・ルイスというチリの映画監督が作った『見出された時』という映画を思い出した。随分前に、映画館で一度観ただけなのだが、(細部はあまり覚えていないが)敷石に躓いて記憶が湧出する場面がとても強く印象に残っている。この日記を検索してみたら、観たのはもう22年も前のことだった。この映画を、もう一度観たいと思った。