●「群像」一月号に載っていた、郡司ペギオ幸夫による『読書実録』(保坂和志)の書評(「徹底した受動性の肯定的転回」)より。
《二百部だけしか刷られないそういった書物は、徹底して断片として屹立しながら、知の全体という普遍性を担う。》
《芸術とはその存在様式を徹底したものだ。一つ一つが特異点として他を拒絶しながら外部を受け容れる存在としての普遍性を担う。》
《普遍性を担う断片の在り方としてスラムに関する写筆が現れる。社会との関係を断ち切ることは、孤立することではない。それは自らを部分と位置付けることをやめることであり、「ならば」によって関係付けられる論理的関係のみに拘泥することをやめることだ。「人間ならば動物だ」は、人間が動物の部分であることを認めることで成立しているからだ。「ならば」で接続される全体は、それ以外を存在しないものとみなす閉じたシステムだ。だからこそ、社会との関係を断ち切り、論理的思考から自由になったものは、逆に、「ならば」の閉域外部へ踏み出すことができる。それスラムの在り方だ。まさにスラムを通して、括弧つきの世界(いわゆる社会)を拒否する断片の普遍性が、閉域外部を志向していることに気付かされる。ここで言う「志向する」とは、能動的にそれを求めて動くことを意味しない。外部は知覚できないが存在するものである以上、それを求めて積極的に行動することなどできない。それは徹底した受動的態度によってのみ可能になる。》
《外部を拒否しながら外部を志向するあり方は、スラムに生きていない者にはミスリードな部分もある。スラムを外から見ている者は、スラムをある種の共同体と見てしまうからだ。社会との関係を断ちながら、別な閉域と接続する、そのようなことはスラムに生きる者の心性ではない。保坂はスラムに生きる者への親和性を感じながらも、徹底した受動性の在り方を、メルヴィルの小説「バートルビー」に求めていく。》
●『読書実録』は、あたかも写筆することを言祝ぐかのようにはじまりながら、写筆することさえ「せずにすめばありがたい」とするバートルビーへと至る。人の書いたものをそのまま写すという受動性から、書き写すという受動的な行為(の能動性)すらも手放す、より徹底した受動性へ。だからこの小説は、写筆することの喜びを描くようなものというよりも、写筆は、写筆の受動性よりもさらに受動的な状態へと向かうための一つの媒介であり、その技法であると考えられる。
ここで、「せずにすめばありがたいのですが」というバートルビーは、しないことを「選択をする」というのではなく、あくまで「しないことへの嗜好」として存在している。
《「するよりは、むしろしないほうがいい」というバートルビーは、可能な複数のものから一つ選ぶという選択や嗜好を、「しない」ことの嗜好によって宙吊りにし、可能な多と実現される一の間に「空」を開くのである。こちら側との関係を一切断たれた空であるからこそ、向こう側がやってくる。この徹底した受動性においてこそ、「ならば」の牢獄から逃れるすべがある。実はこの空を開く技法こそが、写筆や、対談や、思考の断片を置いていくことだったに違いないのである。》
●しかし実は、この書評の一番面白いところは、冒頭の部分だ。
《誰かが書いた小説や随筆を書き写す、写筆する、ことが、小説になる可能性を試みる。本書は、保坂和志による、その実践だ。私にはそれがよくわかる。太田和彦の居酒屋紀行における「きのこより、茄子の方が美味しい」を、いやというほどビデオで見ては、口の中でなんどもなんども繰り返す。そのような行為に、或る種の文学を、密かに感じてきたからだ。》